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「在る」あるいは「居る」ということ〜『緑色の濁ったお茶あるいは幸福の散歩道』山本昌代(河出文庫)

非常に穏やかな、「あっ」と言う間に読めてしまう家族小説である。第8回三島賞受賞作。

病気により四肢不随を抱えながらものびやかに生きる鱈子さん、少し抜けたところもあるが穏やかに寄り添う姉の可李子、甲斐甲斐しく立ち回る母の弥生さん、仕事人間だったがきちんと自分のことも大切にしようとしている父の明氏。四人が生活している家の中をスケッチしただけのようなこの作品は、地の文の視点が縦横無尽に移動したり、不穏な夢の話が挟まれたり、物語の進行とは直接関係のない近所の子どもたちの粗野な会話が侵入してくることによって、不思議な読後感を残す。

可李子が母にカーディガンを編む場面では、

寒い季節に気分が華やぐようにと、少しくすんだ若草色の毛糸を選んだ。

「合わせるものがむずかしいわね。それに少し若向きすぎやしないかしら」

母親は毛糸を見ていったが、可李子は構わずに編み出した。

と、 母親が色に注文をつけようが、可李子は気にせず自分の好きなように家族を想って行動する(カーディガンを編む)。

この物語は私に、それぞれつかず離れず居るという家族の在り方を改めて提示してくれた。一種独特の技巧を凝らした文章には、異化によってよりリアリズムを際立たせてくれる効果があった。

漫画の「あたしンち」を思い出した。

極限にまでデフォルメされた二頭身のキャラクターが織りなす絶妙な日常話。エピソード自体が「あるある」ではなくても、そこで描かれる家族の人間模様は普遍性を獲得していた。

『緑色の〜』は決して順風満帆な家族小説ではない。父が大病を患い、母もメニエル病を発症し、鱈子さんは四肢不随である。しかし、全員がつかず離れず居ることで、家族という体を成り立たせて存続している。皆が在り続けるために居る。表現が難しいがそんなようなことを感じた。良い小説ではあったが、誰かに語ったり誰かと語り合うのは、意外と難しそうだ。

 

第164回芥川賞① 候補作予想「ババヤガの夜」王谷晶(『文藝』2020秋季号)

とんでもなく切実なテーマを孕んでいながら、それと気づかずに読まされてしまう。

文藝 2020年秋季号

文藝 2020年秋季号

  • 発売日: 2020/07/07
  • メディア: 雑誌
王谷晶さんの「ババヤガの夜」である。
これから読む人に簡単に言うと、これはとんでもなく読んでいて面白い作品です。じっくり何かに向き合わないといけないような辛気臭いだけの作品ではなくて、純粋にお話として完成度が高く読み物としての価値が高い。

日本人離れした体格を持ち非常に喧嘩の強い22歳の新道依子は、街中でチンピラに絡まれたため暴力でなぎ倒していたところをヤクザに拉致される。腕っぷしを買われ内樹會会長である内樹源造の一人娘、尚子の護衛を命じられた新道は、最初こそ尚子と反発しあっていたが、次第に打ち解けるようになる。
新道の両親や祖父母は、出自は不明だが日本人ではない。新道の見た目もそれとわかるような混血であり、幼い頃より差別や偏見と隣り合わせで生きてきた。そんな新道を幼い頃より鍛えてきたのは祖父であった。一方祖母はお話を聞かせてくれた。新道は祖母の話の中では、鬼婆が人と触れ合う話を特に好んだという。鬼婆の振る舞いは人にとっていいことも悪いことも含んでいる。祖母としては恐ろしい鬼婆でも善く生きていれば助けてくれるというメッセージを伝えたかったようだが、新道は気の向くままに生きる鬼婆のようになりたいと言い怒られてしまう。
一方尚子は宇多川というヤクザと婚約しているが、この宇多川がとんでもない変態野郎であった。拷問を異常に好み、長い間痛ぶって苦しむ姿を見ようとする。尚子への扱いは表立って暴力的というわけではないが、尚子のことを性の対象として、かなり偏った捉え方をしていることは伺える。尚子の父源造も尚子のことは人としてではなく女としてのみ扱っており、花嫁修行と称して習い事を詰め込んだり、自分が妻にプレゼントしたお下がりの服しか着せなかったり、犬の首輪のように妻にプレゼントしたネックレスを付けるよう固く命じたりしている。
尚子はこのような状況で次第にお嬢様然とした振る舞いをすることで自分の心に鎧を纏うようになる。初めは新道の粗野な振る舞いに露骨に嫌な顔をしていたが、習い事をサボって新道と喫茶店で話をするうちに徐々に打ち解けてゆく。すると尚子を守っていた鎧が解けてゆき、結果としてある決定的な出来事によって尚子はずくずくに傷つけられてしまう。
対極に見える尚子と新道だが、“属性だけで生き方に制約が課されている女性”という点では共通していた。尚子はヤクザの会長の娘、新道は混血。
女性であることの生きづらさだけを取り上げた作品ではない。状況設定を現実離れしたものにすることで、社会が孕むさまざまな問題が前景化されているように感じた。加えて言うと題名のセンスが良い。これまでに読んだことのないタイプの作品だった。
芥川賞にノミネートされたらとても面白い。早めに単行本化されて直木賞で挙げられてもいい。他の文学賞でもいい。とにかく多くの人の目に触れていろんな人の感想を聞きたいと思う作品だった。

後味爽やか、だが、それだけでは終わらせられない〜『アヒルと鴨のコインロッカー』伊坂幸太郎(創元推理文庫)

実は伊坂さんの作品を読むのは初めてである。

本当に全くどんな作家さんかを知らず読んでみたが、『アヒルと鴨のコインロッカー』はとても爽やかなミステリだった。
物語は現在と2年前の2軸で展開される。
現在では椎名という若者が大学入学を機に仙台(作中ではっきりとは明かされていない)へやってくるところから始まる。隣人の河崎というつかみどころのない男から、本屋を襲撃して広辞苑を奪う手助けをして欲しいと依頼される。椎名は断りきれず引越し2日目には強盗の片棒を担ぐことになる。
2年前では河崎は見た目の良さを生かし、ひたすら女遊びに興じている。琴美もそんな遊び相手の1人だったが、琴美は河崎の遊び癖に早々に愛想を尽かしたった1ヶ月で別れている。以降2人は憎まれ口を言い合いながらも腐れ縁の関係性を続けていく。琴美はドルジというブータン出身の若者と付き合っている。琴美とドルジは琴美の勤務先であるペットショップにいた黒い柴犬が逃げ出したため、行方を追い夜道をさまよっていた。琴美のそばを走り去った1台の自動車が何かを轢いたような音を立てたため、まさか柴犬がと思い慌てて駆け寄るも、轢かれていたのは猫であった。猫を埋めるため公園の立入禁止区域へと足を踏み入れ埋葬を済ませた後、2人は野良猫やペットをさらっては殺害を続ける若者たちの会話を聞いてしまう。。。

中盤までは2軸は交わらずにそれぞれの時間軸で進行してゆくが、後半に差し掛かると次第にそれぞれの出来事が交錯し、事態の全貌が明らかになってゆく。
琴美たちはペット殺害集団に付け狙われ、河崎は河崎でHIVウイルスを保有してしまうこととなる。途中中だるみ感はあったものの人物造形が巧みであり、特に河崎と琴美については丁寧に描かれており臨場感があった。

「嫌だからだ」またそういう答えだ。河崎はまるで、屁理屈を盾にして突き進んでくる兵隊のようだった。意外にその盾が強固なものだから、僕は簡単に弾き飛ばされる。(P139)

「無理だよ。どう考えても操られるんだから、それなら素直に従ったほうが賢いよ。もし、性的なものに真っ向から抵抗する男がいたら」
「いたら?」
「俺は尊敬してやってもいいけど、でも、やっぱり馬鹿だな、と思う」河崎は真剣な目をしている。(P210)

河崎はとにかく口が達者でその上見た目が良いので、女性の影が絶えない。近しい関係性として接するには些か難儀な性質である。

「悩んでいる暇があったら、さっさと終わらせてしまいたいっていう性格なの」(P259)

対して琴美は河崎が表面上で繕っている部分に惑わされない。河崎にとっても琴美はうわべだけでなく接することのできるかけがえのない相手だったようだ。


作中では琴美と河崎の出会いについては詳細に語られない。琴美とドルジの出会いについても詳細には語られない。ただ出会った人々の物語が転がってゆく様を切り取っている。
現在と2年前の交錯という企みは、ミステリ的仕掛けに終始しているのではない。2年という期間は、“ある悲劇“が人間にもたらす影響を的確にとらえる上で、必要な時間的懸隔だったのだと思う。ぼかしたが“ある悲劇”については本作を読んでみてのお楽しみとさせてほしい。
作中では外国人や女性に対する無意識の差別、モラトリアムに対する批判、性との向き合い方や捉え方など、極めて規範的な側面も隠す事なく取り上げられている。しかし説教臭くなく、物語の中にうまく融合しているため、読者が物語を追体験する中で、引っ掛かりを感じたところで思いを巡らせることができる。
途中までは面白くなく、読むのも少し辛いように感じていたが、終盤の畳み掛けはとても爽やかであり、私の脳裡では奥華子さんの「ガーネット」がかかっていた。つまりアニメ版の「時をかける少女」が好きな人はハマる要素がある、という事だろうか。いやぜひ読んでみてほしい。

第163回芥川賞④ 番外編Ⅲ直木賞受賞作予想 『雲を紡ぐ』伊吹有喜(文藝春秋)

伊吹さんの作品は本当に優しい。

雲を紡ぐ

雲を紡ぐ

主人公の美緒はいじめに遭っている高校生。母は娘に対し意固地に学校へ行けと自分の意見を押し付けるばかりで、ついに美緒は盛岡にある父方の祖父のもとへと家出する。そして美緒は祖父のもとで生業である織物の修行をしてゆく。親子、夫婦と近い人間関係でうまくいかない場面を具に取り上げ、距離をうまく作りながら関係が修復されてゆく様は、読者に希望を抱かせるに十分だと思う。
所々ドラマチックに仕立て上げられすぎている場面(特に終盤)があり、素直に受け入れきれなかったのも事実だが、美緒の成長からは力をもらうことができたと思う。
すでに本家直木賞の発表は終わっており、本作は落選となってしまったが、伊吹さんの次回作も楽しみに待ちたい。

第163回芥川賞③ 番外編Ⅱ直木賞受賞作予想 『少年と犬』馳星周(文藝春秋)

直木賞受賞作予想2作目。馳さんは5年ぶり7度目の候補入りとなった直木賞界隈イチのベテランだ。
デビュー作『不夜城』が直木賞の候補に挙げられたのは24年前のことであり、同じタイミングで現在選考委員を務める宮部みゆきさんも候補に挙げられ落選している。

今回の候補作『少年と犬』は連作短編となっている。東日本大震災で飼い主を喪った「多聞」という犬が西を目指し続ける。道中行き合った様々な人間を救い励まし見守る。何が目的で西に向かうのか、それは本作を読んで確かめてほしい。
多聞が行き合う人々は様々に人生行き詰まっている。認知症の母を抱え金に困り犯罪に手を貸してしまった男、スラムに生まれ窃盗で身を助けながら生き続けてきた泥棒、自分勝手でろくに働きもしない夫に頭を悩ませる妻、ギャンブル狂いのヒモ男に苦しめられてきた娼婦、妻と猟犬に先立たれ自分も病を抱えた老い先短い老人。
犬が人間にとってどれだけの救いになるかを、この作品は力強く訴えかけてきた。私は長らく、人間の都合の良いように動物を扱うようなことはしたくないと思ってきた。そのため、人間にとって犬がどれだけ素晴らしいかを訴えるような言説には組みしないようにしてきた。しかし賢く慈悲深い犬はやはり人間にとって救いであるようだ。もうこれは受け入れるしかない。
引用したり内容に言及しなければ記事としての価値はあまりないだろうが、この作品に関しては、作品外であまり言葉を尽くしたいような気持ちにはなれない。流石に7度目、この作品なら直木賞はふさわしいのではないでしょうか。

第163回芥川賞② 番外編Ⅰ直木賞受賞作予想 澤田瞳子『能楽ものがたり 稚児桜』(淡交社)

※本文章はネタバレを多分に含みます。

 

今回は直木賞の候補作をしっかり読み込んでみたいと思う。淡交社という茶道関係の書籍を扱う出版社の本が候補入りしたことは世間を驚かせた。私も驚いた。作者の澤田さんは候補歴4回目なので直木賞としてももうベテランだ。受賞の可能性も低くはない。

 

能楽ものがたり 稚児桜

能楽ものがたり 稚児桜

 

 

しかし高くもないだろう。本作は能を題材とした短編集だ。短編集は1作ごとの出来不出来にムラが生じやすく、1作でも気に入らない出来のものが混じっていればそれを理由として落選とされてしまいやすい構造を持っている。直木賞のように保守的な文学賞ではなかなか「ここがいい!」という理由で推されて受賞となることはない。できるだけ瑕疵のない、誰が見ても悪くない作品が、結果として過半数の票を集めたりするものだ。

なお、本文章を書くにあたって、能の題材を調べるために以下のサイトを参考にした。

www.the-noh.com

 

1作目「やま巡り」(『なごみ』2018年1〜3月号掲載)。能の「山姥」という演目が題材とのことで調べてみたが、かなり大きく趣向が変えられている。親に売られた遊女百万と児鶴が都から信濃善光寺へ参る途中、山中で日が暮れ途方に暮れていると親切な老婆が一晩の宿を貸してくれる。百万が礼にと都で評判の山姥の曲舞を舞おうとするが。。。

百万は寒村の出身であった。その里では「ゆえあって婚家を出された女たちが、身を寄せ合うようにして暮らしてい」たという。そんな彼女らを人は山姥と呼んだ。百万の実母はそんな女たちの一人であったが、結局男やもめの後添えとなる道を選んでしまう。百万は結婚相手の男に疎まれ身を売られてしまう。

果たして、道中行き合った親切な老婆は百万の実母であった。母があの寒村にいるという噂を聞いた百万は、実母を憎みつつも憎みきれず、愛憎渦巻きながら善光寺詣りという嘘をついてまで母を訪ねた。うまく母と行き合った百万は、遊女として都で培った山姥の舞を母に見せようとする。母の行いの結果百万が身につけた山姥の舞を。百万が寒村の出身であることや山姥のモチーフなど無駄なく扱われているため、読者も無理なく展開が先読みできてしまう。ただ展開であっと言わせるような作品ではないため先読みできてしまうことは特に問題ではない。

親子の縁は分かち難く、憎みたくても憎みきれない。道徳の授業でも使えそうなテーマだった。

 2作目「小狐の剣」(同 2019年1〜3月号掲載)。「小鍛冶」という演目を下敷きにした作品。2作目にしてようやくわかってきたが、『稚児桜』全編を通して、登場人物や状況設定以外は完全にオリジナルのようだ。演目「小鍛冶」は勅命により刀造を命じられた鍛冶職人宗近が相槌を求めて稲荷明神に救いを求め、見事名剣「小狐丸」を完成させるという筋立てだ。しかし「小狐の剣」では宗近の一番弟子豊穂が、宗近の娘葛女を孕ませた挙句、宗近が製作した太刀を盗み行方を晦ませている、とかなり込み入った設定になっている。物語は葛女視点で進む。「小鍛冶」同様勅命を受けた宗近が刀造のために材を求め葛女を使いに走らせた際、辻で行き合った怪しげな老人に引き留められ、葛女は相談を持ちかけられる。老人が営む宿に無銭で宿泊を続ける浮浪者がいるという。しかし浮浪者はよい鋼を持っていると豪語し、果たしてそれは本当なのか見定めてほしいと葛女に依頼する。葛女は半信半疑で老人の宿へ赴くとそこにいたのは豊穂であった。宗近は刀造に用いる鋼だけではなく、これまた「小鍛冶」同様に相槌を探してもいたため、葛女は必死に豊穂を鍛冶場へ連れ戻そうと躍起になる。ようやく豊穂を連れ戻すが、完成した勅命の刀を持ってまたも豊穂が姿を消す。ここまで一切触れていなかったが、豊穂の幼なじみで同時に弟子入りした真面目な黐麻呂という人物がおり、葛女のことを憎からず思っているらしい。葛女は器量も悪くないようだ。物語として美女が美男に弄ばれ、真面目な人物が脇で蚊帳の外状態になるという一種陳腐な流れにはなっている。しかし、原作の材を生かしつつここまで話を膨らませた、というより別の物語を作り上げた筆力がすごい。

ちなみにまだあと6篇ある。

3作目「稚児桜」(同 2018年4〜6月号掲載)。材となった演目は「花月」。筑紫国(いまの福岡県)の男性が、息子が行方不明になったことをきっかけに出家し諸国修行の旅にでて、清水寺で舞の得意な花月という少年と出会うという筋書き。じっくり花月のことを見ていた男は、この花月こそ自分の息子であると名乗りを上げ、感動の対面となる。花月は七つの時に天狗にさらわれ、激動の人生を歩んでいたという。「稚児桜」では、「七つで家を離れた少年」と「父が対面する」点以外はほとんど全てオリジナルに書かれている。七つで親に身売りされた花月という稚児(僧の身の回りの世話や閨房の供をする少年)は僧たちの覚えがめでたく可憐な生活をしている。しかし花月は齢十四を迎え、稚児としての時間の猶予はあとわずかである。一方花月と同年の百合若という稚児は、未だに身売りされた身の上を嘆き閨の相手もままならない愚図である。花月の父が息子売った後ろめたさに七年越しに引き取りにくる。花月は自らの運命を受け入れ強く生きていこうと覚悟を決めており、今更父の元へ戻る気も父のことを受け入れる気もない。演目「花月」では父は息子の舞をじっくり見ただけで花月が自分の息子であることを悟るが、「稚児桜」の父は花月と百合若が並んだ時にどちらが自分の息子かも判別がつかない。もはや親子の縁は切れており、切っても切れない縁を感じさせた「やま巡り」の親子とは対照的であった。

4作目「鮎」(同 2019年4〜6月号掲載)は「国栖」という演目に材をとっている。壬申の乱を下敷きとした「国栖」は、大友皇子に狙われた大海人皇子天武天皇)が吉野(旧名国栖)に逃れた際に老夫婦が住う民家に匿われるという話だ。老夫婦の夫が鮎を大海人に供したところ、帝は半身を老人に分け与える。老人は鮎の生き生きとした有様に心奪われ、川に放したところ見事生き返り川を泳ぎ切ったという。本作「鮎」では、大友方の間諜、蘇我兎野(そがのうの)を視点人物として、大海人が遁世した先の吉野宮の人物を伴って、戦に備えるために東行する話となっている。蘇我氏は力のある豪族だったが、それがために大友から目をつけられ何かにつけていじめられていた。困った蘇我氏は兎野に間諜を命じた。東行の道中に、大海人と旧知の仲である大伴馬来田(おおとものまくだ)が援護に駆けつけ、民家で鮎が振る舞われるというところは「国栖」と同様である。しかし大海人の妃である讃良(さらら)が兎野を召し半身の鮎を川に放つよう命じる。死中に活を求める様を鮎で擬えたいという。しかし兎野は鮎を放つ際、大海人方が勝利した場合、兎野が吉兆を願って鮎を放ったことが世間に知られ、それは蘇我氏からすれば兎野が裏切ったと捉えられるだろうと考える。また大海人方が挙兵に失敗しても、結局敵方の先占を行ったとして裏切り者扱いを受けるに違いない。兎野は讃良が、兎野が間諜であることに気付いており、兎野の先を閉ざすために鮎を放つ役を与えたのだと悟る。しかしこんな手の込んだことをせずとも兎野を殺害すれば済む話なのになぜ殺さないのだろうかと疑問が浮かんだ時、兎野はまたしても悟る。殺せばいいはずの兎野を生かしておくことで天地神明の加護を受け、此度の挙兵を必ずや成功させたいという讃良の信心深さに自分は生かされているのだと。自分を手ごまと考え、いつ切り捨ててもおかしくない蘇我氏での生は終わり、情けによって生かし続けている讃良のもとで、新たな生を得たと思って過ごそうと兎野は決める。川を泳ぎ切った鮎のように、兎野は生き返った。

5作目は「猟師とその妻」(同 2017年7〜9月号掲載)。能の演目は「善知鳥(うとう)」。演目「善知鳥」では諸国をめぐる僧が、外ヶ浜へ向かう途中に立ち寄った立山の山中で、外ヶ浜に住っていた猟師の亡霊と出会い、外ヶ浜に着いたら猟師の家へ行き蓑笠を手向け弔ってほしいと依頼される。到着し弔っているとまた亡霊が現れ、猟師稼業で大量の善知鳥を殺生した罪により地獄で苦しんでいることを打ち明けられる。一方「猟師とその妻」では、まず僧の有慶は越後への使いから京の仁和寺へ帰る道中に回り道をして立山へ立ち寄っている。山中で有慶は足を踏み外し滑落してしまい、その後通りがかった男に救出される。男は外ヶ浜の猟師であった。男の妻は名うての猟師の娘であり、自分としては畑を耕していたいのだが、猟をした方が身入りが良いとせっつかれ、いやいや猟に励んでいた。しかし殺生を行うことにどうしても馴染めず、ついには家族を残し逃げ出したという。男は有慶に、外ヶ浜へ行き、残された家族に自分は死んだということにして伝えてほしい、と頼む。有慶も初めは男に家族のもとへ帰るよう訴えたが、残された家族の悲哀を思えばこそ、男の頼みを受けることとした。外ヶ浜へついてみると、そこには夫の不在を気にすることなく猟に励む妻、榎女(えのきめ)の姿があった。榎女は夫の死を伝えてもけろっとしたもので、有慶を自宅に招き肉食と姦淫で破戒行為に引き摺り込む。次の日には狩猟に加担させてしまう。有慶は自分が立山にいた男の二の舞になるかも知れぬと悟る、という筋書きになっている。「善知鳥」では殺生行為の罪深さを描く仏教哲学に忠実な筋立てだが、本作ではむしろ仏教では測り切れない人間の業の深さに焦点を当てていると感じられた。

6作目は「大臣の娘」(同 2018年7〜9月号掲載)。能の演目は「雲雀山」。本作のみ能の解説は別ページを参考にした。演目「雲雀山」では右大臣豊成公が縁遠い者の讒言を信じて家臣に娘を雲雀山で殺害するよう命じるが、姫を殺すのは忍びないと乳母とともに雲雀山で隠れて生活するという話。結局思い直した豊成公と再会を果たし、無事城での生活に戻るというハッピーエンドになっている。本作では、姫は豊成と身分の低い女との間の子であり、正室からひどくいじめられている。姫自らいじめに耐えかね、乳母に相談し城を抜け出し雲雀山に篭る、と筋が変えられている。乳母の過去のエピソードも深ぼられており、親子の関係を複数軸で捉え直す試みがなされている。

7作目は「秋の扇」(同 2017年10〜12月号掲載)。能の演目は「班女」。演目「班女」では遊女花子と少将が恋に落ち、花子は、秋にまた来ると扇を残して行った少将を焦がれるあまり、他の客を取らなくなってしまう。宿を追い出された遊女は少将を求めて都へ出向き、下鴨社で偶然再会を果たすというこれまたハッピーエンドである。本作では、怠惰な遊女花子が少将を焦がれるフリをし、同様に扇を眺めてはため息を吐くなどして他の客を取らずにいると宿を追い出されてしまう。仕方なしに都へ行って少将に金でもせびろうとするも、都の人の多さに面食らってしまう。また遊女家業に戻るかと思案しているところに、かつての遊女仲間真貴女と出会う。真貴女は少将に会いたいなら人々の評判になることだと言って、下鴨社の前で毎日形見の扇を持って少将を焦がれているフリをさせる。うまく評判が回り、ついには少将との再会を果たす。花子や真貴女の人物描写も相まって軽く読めてしまった。

最後は「照日の鏡」(同 2018年10〜12月号掲載)。能の演目は「葵上」であり、あの源氏物語から材を取っている。「葵上」は六条御息所の生き霊を退治しようとする話であるが、これと比べ「照日の鏡」はぐっと現代的になっている。久利女という醜い少女が照日ノ前という巫女に召抱えられ、生霊を下ろす憑座(よりまし)として付き従うようになる。本作の白眉は、「きらびやかな世界に生きる上流の人々は、生きる上での醜い部分を生霊に託すことで生きている、そのために巫女である照日ノ前は話を合わせている」という現代的な解釈を持ち込んだ点にある。言ってしまえば「虚飾」の二文字で片付けられるような貴族の暮らしを、古典に題材を取りながら現代的に描きなおした本作はとても面白かった。

 

以上、各作品の能との比較と感想を書き連ねた。大人の読み物という印象で、地味というか滋味深い作品だった。直木賞は受けてもおかしくないが、他作品の読み込みを進めないとなんとも予想し難い。まだまだ先は長い。

性被害に遭うのって性的な価値を持っていると認められるということだから羨ましく感じてしまう瞬間があってそんな自分が許せない〜「改良」遠野遥、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」大前粟生(『文藝』2019年冬季号)

別にそんな話ではない。遠野遥さんの「改良」である。

文藝 2019年冬季号

文藝 2019年冬季号

  • 発売日: 2019/10/07
  • メディア: 雑誌

男性性をそのままに受け入れるのではなく、男性である自分自体を肯定も否定もせず、だからこそ無自覚に男らしい振る舞いをすることもない「私」。
人間の外見における美的価値にこだわる「私」は、次第に女性装へと傾倒していく。動機は明確には語られていないが、「メイクをしていない自分の顔を直視することは苦痛だった」(P55 『文藝』2019年冬季号)とあるため、素のままの自分から離れた装いをしたかったのかもしれない。
また、男性性を積極的に受け入れることがないだけだった「私」のことを、世間は男性的でないだけで揶揄をする風潮があり、それは小学校の頃に力の強い同級生から受けた性的強要に端を発する「私」の中に巣食う根深いトラウマであるが、それが男性性へのカウンターとして女性性への接近、つまり女性装へと至る一因ともなったのであろう。

世間には男性と女性とLやGやBやTやQやその他様々な人がいて、それぞれの人々はそれぞれの枠で規範的な振る舞いをすると錯覚している人は多い。違う。男性であること自体に疑問は持っておらずとも男性的な振る舞いをしたくないという価値観は至極真っ当なものだし、性愛の対象がストレート(この言い方もいかがなものかと思うが)だったとしても、生き方、人としての在り方に関して性別に規定される謂れはない。性愛の対象が異性であるか同性であるかということはより直接的に動物学的性別に関わっているため問題とされやすいが、日常生活においてはむしろ些細な振る舞いの中に込める性差こそ違和感を抱きやすいはずだ。性愛の対象が異性であっても同性間でそうした話題を取り上げることを好まない。こうした場合、「自分たちは普通異性愛者でありそうした話題は当たり前に全員の関心事だから喜んで猥談に興じて然るべきであり、かの者がこれを好まないのは当然同性愛者であるから」という短絡的な意味づけが、さらにはそれを蔑視したり揶揄するような風潮が形成されることがままある。たとえ異性愛者であってもそうした話題はしたくない、という人がいることが受け入れられない人がいる。大前さんの「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」は読者をこんな当たり前の絶望に立ち返らせてくる。性別は生物学的役割と社会的意味づけが不可分にあり非常にややこしい。そのややこしさにこだわり悩み前に進めない人はかなり多いのではないか。ポップな表紙につられて読んで大ダメージを喰らったという人は多いのではないか。もしくはダメージすら受けず「彼らは何をこだわっているのか」と一笑に付した読者もいるだろうか。

どちらの物語も淀みなく進み、かなり重量のある筋立てにもかかわらずあっという間に読み終わってしまった。文章も妙な引っ掛かりを感じさせない。この物語はおそらく一読で何かを残すようなものではなく、折に触れ再読させその度に当たり前だと扱われている社会的生物的性別に対する疑義の眼差しを取り戻させてくれる、ような気がする。