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苦しみ抜いて強くなり、そしてやさしくなる〜『売野機子のハート・ビート』売野機子(祥伝社)

1冊読み切りで、短編集で、やさしい気持ちに、前向きになれるマンガです。とてもいい。とってもいい。

収録作は4作。どの話も音楽が根幹に関わっている。

「イントロダクション」は人気バンドマン「聖一」が街中で「じゅり」という女性に一目惚れする話。有名人として扱われたくないため、本名を隠し「聖二」として近づく。吸うたばこ、飼っているネコ、音楽の趣味。運命とでも呼びたいほど様々な趣味がぴたりと一致する2人。聖一を、バンドマンではなく1人の人生として受け入れてくれる相手はいるのだろうか。相手がどんな人であれ、人としてきちんと向かい合っていきたいなと思わせてくれる作品でした。
作中では聖一による、詩的なモノローグが挟まれる。聖一がじゅりに惚れた瞬間を引用するので、雰囲気を感じてみてほしい。

LEDはきらいだ

この10年で
ヘッドライトは様変わり

あんなにドラマチックだった
歩道橋は消えて無くなった

縞のソファや
オーディオや
デカい掃除機と
同じにーー


そう思ってたけど

この白くて激しい光が
このひとの瞳を星まじりにするなら

好きになりそうーー

(P21-23)


2作目は「ゆみのたましい」。これは文学です。国語の教科書に載せてほしい。全国の高校生が読むべきです。主人公の「未来」は音楽家の母を持つ裕福な小6の少年。「ゆみ」は未来の母にファゴットを習いに毎週飛行機や新幹線を使って長崎から東京までやってくる高3の少女。未来がゆみに抱いてしまった淡い淡い恋の行方を追うこの作品は、様々なモチーフが何を示すかはっきりさせないまま散りばめられている。

ああ 今日のレッスンもハードだった
こんなに練習ばっかりしてたら戒名に“管”の字入れられそう
絶対やだな
花とか星とかがいいのに
(P58)

と、ゆみが言えば

僕は一生けんめいゆみの戒名を考えた
同時に死んだらやだな とも考えた
(P58)

と、未来はゆみのことで一生けんめいになる。
未来は毎週末のささやかなゆみとの会話を楽しみにしていたが、サマースクールで3週間スイスへ行くことになる。そのことを告げた夜、とっくに飛行機で帰っているはずのゆみが未来の家の庭に止まっているのを発見する。

ゆみ!?
どうしたの!? 飛行機乗らなかったの?



...勝手にお庭に残ってごめんなさい



そんなことはどうだって...



未来くん
今日は帰りたくない...
(P66)

未来はゆみが長崎でつらい目に遭っているのではないかと気が気ではなくなる。そして親友の前田にスイス行きを譲り、親にも黙ったまま単身長崎へ乗り込む。
そこで未来が目にしたのは、幸せそうな家族の中で楽しそうに笑うゆみの顔だった。素敵な彼氏とキスをするゆみの顔だった。
ゆみの不幸を願っていたはずはないのに。
母に事の次第を告げた未来は、「それは音楽の神様とゆみの問題ね」と教えられる。そこで初めてゆみがいる世界の巨大さを感じる。きっと自分には辿り着けないという、とても寂しい距離も感じたことだろう。
そのまま月日が流れ、ゆみは音大の試験に落ちた。
浪人はせず地元の大学に進むという。
1年後、偶然空港で再開した2人は、話をする。

母が.........
ゆみ...さんは沢山練習したから生まれ変わったって吹けるぐらいだって...



うーん...
私のたましいには報われない人の印がついていて
だからきっと生まれ変わっても報われない人のままだと思うの

でも
このたましいはよく考えた人でもある
(P86−88)

ここで未来のモノローグが挿入される。

その時
12才の俺は気がついたんです
時間なんて無力だと
時間が解決するって表現は正確じゃないと

解決したのだとすればそれはきみが
ゆみ自身が


俺はそれを讃えたい
きみにそれを誇ってほしい
でも子供の俺は言葉を知らなくて

「戒名に星も花も太陽も入れてあげる」
と言いました

『全部似合うから』
というのは飲み込みました
(P88−91)

物語は以下の独白で幕を閉じる。

俺はよく空想する

ゆみのたましいがバラバラになって次の入れ物に入るところを

「よく考える人」を

それに見とれる誰かをーー

そこにはゆみの「考える人」以外の要素もバラけて散って入れ物が輝く


とつぜんメールしてごめんね
少しつらいことがあった

でもあのシーンを思い出すと
自分の人生が
美しいものだと信じられるんですーー
(P93−94)

この物語は大きくなった未来がゆみに宛てたメールという体裁で書かれている。独白部分は現在の大人視点の未来のものだ。
「少しつらいことがあった」と言ってゆみに宛てたメールを作成する未来。

一体最後に思い出している「あのシーン」とはいつのことなのか。「考える人」とはどんな人だろうか。空港で再開したときに「ゆみさん」と敬称付きで読んだ未来の気持ちはどんなだったろうか。なぜ戒名がモチーフに使われているのだろうか。なぜ未来は「ゆみのたましいが次の入れ物に入る」ところを空想するのだろうか。あくまで淡い淡い恋模様を淡く淡く描くことだけにフォーカスされている。何もはっきりとは描かれない。
また、ここに紹介したのは抜粋なので、全編を通して読んでそれぞれに感じるものがあれば教えて欲しい。この作品は絵が本当にとても魅力的なので、絵を楽しむ意味でもぜひぜひに本編を読んでみてほしい。

3作目「夫のイヤホン」は専業主夫の夫が思い出せそうで引っかかる懐メロに気を取られ上の空になる話。この物語に関しては詳しい案内はあえて避ける。ただ、とても爽やかで優しくて暖かい“再生“のお話とだけ言っておく。初めて読むタイプだった。ずっと読みたかった物語。ありがとう。

4作目「青間飛行」。春妃という若手インタビュアーの成長物語。難しいインタビュー相手との格闘を通して、素敵な恋人との同棲という恵まれた私生活も通して、なんとか一つずつキャリアアップしてゆくというお仕事ものとしてわかりやすい構成になっている。もちろんこの本筋自体も面白い。絵もとてもかわいい。
しかし、無粋を承知で言うと、新人の成長物語が本筋として描かれながら、題名からは春妃の先輩こそが中心人物であることがさりげなく示されている点こそが、この作品の白眉であろう。憎い。

記述量が減ったため、作品の良さに偏りがあると思われるかもしれないがそんなことはない。全てとても良い作品なのだが、「ゆみのたましい」があまりにも多くの問いを私に残したのだ。こんな作品は1年に1度どころではなく、10年に1度出会えるかどうかだと感じた。素敵な出会いを届けてくれた、神戸の「古本屋 ワールドエンズ・ガーデン」さんに感謝を。

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