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鈍麻した感受性を再起動させる小説 ~ヤモリ、カエル、シジミチョウ 江國香織~

 年が明けてから「これは!」と目の覚めるような作品に出会えていなかった。ただ時間が過ぎてゆくなかで自分がすり減ってゆくような不思議な焦燥感に身悶えながら手に取ったのが江國香織さんの『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』だった。

ヤモリ、カエル、シジミチョウ

ヤモリ、カエル、シジミチョウ

 

  図鑑のような装丁が非常に綺麗で、このためだけにハードカバー版を買うのもアリかもしれない。

 拓人という幼稚園児がこの世界をどう受け止めるかに焦点を絞って書かれているのだが、その世界を構築するディテールを厭というほど江國さんは書き尽くす。

 潔癖気味で常識に囚われた過保護気味の母親、人当たりだけは良いが不倫し放題の父親、拓人を恣意的に愛する姉、婚約者から婚約延期を切り出され反対に破局を宣言してしまうピアノの先生、半分ボケてきてテレビと会話し野良猫に餌をやるだけで近隣住民に迷惑がられる老女、などなど。彼らそれぞれの視点へと切り替わりながら物語世界は厚みを持って構築されてゆく。

 拓人はこれらの世界を、”ここにいる”と”ここにいない”の二元論で捉える。だから拓人が見るこの世界はとてもシンプルだ。拓人はある種のテレパス的素質を持っており、人や動物の心の中を読むことが出来る。声にならない思いや伝えたいことに対して、拓人は声に出さずに答える。そんな彼の特質を母親は言葉遅れだと嘆くが、実際は拓人が一番この世界と通じ合っている。母親はとことん形而下の存在であり、拓人はどこまでも形而上の存在である。このすれ違いが(母親には)さらなる悲劇を招いてゆく。拓人はどこまでいってもフラットなままで、彼にとって母親はいま”ここにいる”はずなのに”ここにいない”感じがする。その“ここにいない”感じは夫の不倫相手のことで思い悩んでいたり、子どもたちとのコミュニケーション不全(が生じているという思い込み)に関して思い詰めていることから生じている。そういうときはムリに話しかけたりせず距離を置く方がいい、とどこまでも冷静だ。

 文章に強いこだわりを感じた。語りすぎない、しかしどうしようもなく伝わってくるものがある、というのがこの物語の最も強い部分だ。本気で、文章でこの域に達することは一生ないだろうと悲しくなるほど才能を感じた一節を引用する。拓人の父(耕作)と不倫相手(真雪)の浜辺でのいちゃこらシーンからの一節である。

「べたなことを言ってもいいですか」

 真雪が訊くと、

「だめです」

 といいものがこたえ、ついでに喉に唇が押しあてられて、真雪はあやうく頽れそうになる。そっくり返り、腰砕けになって。けれど倒れないのは、背中を腕に抱えられているからだ。シーカヤックにも怯むくらいインドア派の耕作の、(たまにしか発揮されない)力強さに、真雪はいつも驚かされる。喉が熱くてくすぐったい。

「言いたい。言いたい」

 笑いがこみあげ、真雪の声はとぎれとぎれで、自分の耳にさえよく聞こえない。

「言わせて。お願い」

 結局、尻もちをついた。服が濡れても自分がまったく気にしないことを、耕作が知っていることが嬉しかった。

 立ち上がり、また指をからめる。

「やっぱり言わない」

 呟くと、耕作は聞こえないふりをした。言ったのとおなじことだと真雪にはわかる。百万ものべたなことを、自分たちはいま言いあった。

「さっきより、波、高くなったね」

 今度は自分の唇が、耕作を味わう番だと真雪は思う。

(『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』朝日新聞出版 P329-330)

 物語を貫く主軸はどこまでもはっきりしているのに、その主軸を物語的に彩る手腕があまりにも豊富だ。ころころと視点が切り替わるわりに展開される言語にあまり大きな差が見られない点など不自然なところがないわけではないが、そのような些細な瑕疵はすべて”そういうもの”あるいは”味”として片づけてしまいたい欲望を読者に抱かせた点でも、この作品の強さは一層感じられる。