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「在る」あるいは「居る」ということ〜『緑色の濁ったお茶あるいは幸福の散歩道』山本昌代(河出文庫)

非常に穏やかな、「あっ」と言う間に読めてしまう家族小説である。第8回三島賞受賞作。

病気により四肢不随を抱えながらものびやかに生きる鱈子さん、少し抜けたところもあるが穏やかに寄り添う姉の可李子、甲斐甲斐しく立ち回る母の弥生さん、仕事人間だったがきちんと自分のことも大切にしようとしている父の明氏。四人が生活している家の中をスケッチしただけのようなこの作品は、地の文の視点が縦横無尽に移動したり、不穏な夢の話が挟まれたり、物語の進行とは直接関係のない近所の子どもたちの粗野な会話が侵入してくることによって、不思議な読後感を残す。

可李子が母にカーディガンを編む場面では、

寒い季節に気分が華やぐようにと、少しくすんだ若草色の毛糸を選んだ。

「合わせるものがむずかしいわね。それに少し若向きすぎやしないかしら」

母親は毛糸を見ていったが、可李子は構わずに編み出した。

と、 母親が色に注文をつけようが、可李子は気にせず自分の好きなように家族を想って行動する(カーディガンを編む)。

この物語は私に、それぞれつかず離れず居るという家族の在り方を改めて提示してくれた。一種独特の技巧を凝らした文章には、異化によってよりリアリズムを際立たせてくれる効果があった。

漫画の「あたしンち」を思い出した。

極限にまでデフォルメされた二頭身のキャラクターが織りなす絶妙な日常話。エピソード自体が「あるある」ではなくても、そこで描かれる家族の人間模様は普遍性を獲得していた。

『緑色の〜』は決して順風満帆な家族小説ではない。父が大病を患い、母もメニエル病を発症し、鱈子さんは四肢不随である。しかし、全員がつかず離れず居ることで、家族という体を成り立たせて存続している。皆が在り続けるために居る。表現が難しいがそんなようなことを感じた。良い小説ではあったが、誰かに語ったり誰かと語り合うのは、意外と難しそうだ。