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第166回芥川賞① 受賞作予想「皆のあらばしり」乗代雄介(『新潮』10月号)

 

 

乗代さんの物語だ、という手触り。今作も素直な青少年が大人と触れ合う物語。一種のフェチを感じる。私はこういうお話が好きだ。高校時代に出会いたかった作品。高校の司書の先生がいたら、即刻図書室に配架してほしい作品。

歴史研究部に所属する高校生の「ぼく(浮田先輩)」は、研究のために訪れた栃木皆川城址で、関西弁を話す謎の「男」と出会う。「男」は「ぼく」の研究に興味津々で首を突っ込んで来ようとする。うさんくさいと思いつつも会話のはしばしから男の知識が幅広いことを察知し、「男」に対し一目置くようになった「ぼく」は、「男」と共同研究をするようになる。研究は次第に、小津久足という実在した豪商の謎の蔵書「皆のあらばしり」を探すことへと目的が変わっていく。

「ぼく」は面識のない社会人の「男」に対しても敬語は使わない負けん気の強い少年に見えるが、その実かなり「男」のことを尊敬しているところが素直でよい。また、男は常に怪しげな空気をまとっているが、ひょうひょうとしているだけではなく

「情報を選り好みして放っといたらあかん。人の家に土足で入り込むよな真似もあかん。慌てる乞食は貰いが少ないのはほんまやで」(『新潮』P30)

「打算っちゅうもんは十中八九、空振るもんや。大半の人間はそこでやめてまうから打算に留まるんやで。それを空振りしてなお続けてみんかい。(中略)損得勘定しかできん初手でやめてまうアホは、そんなことも理解できんと、死ぬまで打算の苦しみの中で生き続けるんやけどなー」(同 P32)

「接待術はな、結局は思わぬことを覚えておいてくれたっちゅうことに尽きるんや」(同 P52)

などと、これまた素直に「ぼく」のためを思っていい大人をしているところも、優しい世界を感じられる。いい物語世界。

いわゆる純文学については物語の結末をネタバレしても十分に楽しめるものだと思っているが、本作はネタバレせずに読んだほうがおもしろいと思う。なので本当はもう少し紹介したいのだが、ここで止めておく。それだけこの作品は物語性に富んでいる。芥川賞の範疇として選考委員諸氏に受け止められるか、やや心配だが、そんなこと関係なく全国の高校生にぜひ読んでほしい作品だ。

第164回芥川賞④ 受賞作予想「小隊」砂川文次(『文學界』2020年9月号)

非常に重厚な作品だった。砂川さんの「小隊」である。

  • 大枠

外交上の問題でロシアとの間に戦争が起こっている。舞台は北海道。すでに敵軍は上陸してきており自衛隊が陣営を敷いて迎撃に備える。前線部隊の小隊長である安達を中心に据えた3人称の語り口で物語は綴られる。安達は幹部候補生であり、まだかなり年若い。部下にも年上の士官が多い。普段は階級上の上下関係を守りながらも、先輩士官たちに色々教えてもらったりしている。
緊迫する現代の国際情勢を鑑みれば一笑に付すこともできない設定である。政治家たちは中身のない会議ばかりを繰り返し世論はハト派タカ派も前線にいる隊員が血を流すことには思い至らず好き勝手な議論をしている。自衛隊自衛隊で、政治家たちのまとまらないオピニオンのままに上層部が振り回され、情報は過早あるいは直前にもたらされる。隊員たちはもはや諦めきっており、このような非現実的な非人道的な状況さえも受け入れるしかなく、その中での次善の策を、長年の訓練の結果身体に染み付いた「義務」に突き動かされる形で遂行していく。

  • 「義務」

安達が「義務」として捉えている彼の行動原理が会得されていく過程は非常にリアルだった。もちろん長年の訓練を通して醸成されているものではあるが、非戦闘時にはそこまでの気迫を持って彼を突き動かすものではなかった。実際に戦闘が始まり身近に死を感じる状況になって、頭は理性は完全に混乱しているにもかかわらず、身体だけはやけに冷静に為すべきことを為していく。彼は何度となく自分の「義務」に従った行動を、行動ののちに遅れて頭で認識している。

〈砲撃を受けた部隊の隊員今井が戦意を喪失している場面〉
 自分の右足が持ち上がり、目の前に突き出る。これは本当に自分がやっていることなのだろうか。頭に血が上っている。でも怒りじゃない。近いが、もっと別のものだ。恍惚に似ているが、もちろん恍惚でもない。足が、今井の側頭部にめり込む。初めて人を蹴り飛ばした。今井は両手で蹴られた部分を必死に押さえ、瞬きも忘れて目を見開いている。
「てめえこの野郎テッパチかぶれ。戦え」
 まくし立てる。自分の声とは思えなかった。
(『文學界』9月号 P85−86)

(先輩士官が安達の命令に食ってかかった場面)
「これでも、まだ続けるんですか」
 再編を思案しているときだった。声の主は1分隊長の佐藤1曹だった。1分隊は元の七名から四名にまで減っている。当然といえば当然だが、各分隊長はみな上級陸曹で安達なんかよりもずっと勤続年数が長かった。疑問系を取ってはいたが、語気は荒い。若い陸士を問い詰めるときなんかにそっくりだ。それでも安達は怯まなかった。
「続ける」
 心にもないことをきっぱりと言ってのけた。自分でもよくわからなかった。佐藤は質問をしたにもかかわらず、安達の答えにさらに食って掛かるようなことはしなかった。ひょっとすると、佐藤の方でもこのせりふを待ち受けていたのかもしれなかった。
(『文學界』9月号 P90)

安達が一種取り憑かれたように隊長としての役割を演じることで、彼の所属する隊は組織として回っていく。安達自身の意思よりももっと大きな組織の意思に突き動かされる形で(安達はそれを「義務」と表現している)、安達は為すべきことを為している。この生成変化が、どうにも避けられないものとして立ち現れているところに、本作の熱が込められていると感じた。その熱は確かな描写によってこれでもかというほど伝わってきた。前作は地の文で思弁を露わに書きすぎていたため、ややうるさく感じられたが、この作品はまさに「小説」らしく、物語は澱みなく進行してゆき、その中で登場人物の思考を追体験する形で作者が一番熱を持って伝えたいことが伝わってきた。
もちろん安達の感情が雄弁に語られているところもある。しかしそこはむしろ安達の生成変化に伴う痛切な叫びとして描かれており、とても迫力がある。

自分を支えるのは不撓不屈の精神でも高邁な使命感でも崇高な愛国心でもなく、ただ一個の義務だった。3等陸尉という階級に付随する、無数の手続きが、総じて一つの義務となり、自分を支えている。安達は、もう勘弁してくれ、と強く思っていたが、身体は常に義務に忠実で、今も強く指揮下部隊を掌握し、適時適切な状況把握に努めようとしている。
(『文學界』9月号 P85)

  • 受賞可能性

前作は細部の書き込みは評価されたが、作品全体を俯瞰した上での評価は芳しくなかった。今作は細部の書き込みという持ち味はそのままに、弱点だった部分が見事に克服されていると思う。掲載誌の『文學界』では表紙に名前すら出ておらず、巻頭掲載でもなかったため、編集部として芥川賞を狙った作品ではなかったのかもしれない。しかしこういった作品をきちんと評価する選考委員であれば、これはかなりいい線までいくのではないだろうか。期待も込めてこの作品は現段階での本命である。対抗はまだ読めていない乗代さんの作品だ。発表までにはきちんと読んで予想をまとめたいと思う。

第164回芥川賞③ 受賞作予想「母影」尾崎世界観(『新潮』12月号)

芥川賞の候補作もキリキリ読んでいきたい。この半年の不精が祟り、候補作のうち読み終わったのはようやくこれで2作目だ。図書館でもすでに「すばる」と「群像」は貸し出しされていてなかなか戻ってこない。

新潮 2020年 12 月号

新潮 2020年 12 月号

  • 発売日: 2020/11/07
  • メディア: 雑誌
そんななか、話題性の一番高い本誌がスムーズに手元に準備できたのは幸運だった。

  • 大枠について

小学生の女の子が視点人物。貧乏な母子家庭で育つ「私」は、お母さんの仕事場であるマッサージ店に学校帰りによく足を運んでいる。壊れた大人が母に直してもらいにやってくる。やってくるお客さんは大体知らないおじさんだ。カーテンを隔てた隣のベッドでお母さんは知らないおじさんを直していく。大体こんなふうに物語世界は立ち上がる。
子どもの語りで無理なく、母の仕事が性に絡んでいることが明らかにされてゆく。「私」は学校の同級生から「あの子のお母さん、変タイマッサージなんだって」といじめられている。いじめてきた同級生の中には、以前一緒に遊んだことのある友達も混じっていた。しかし「私」はあまりショックを受けていないように思われる。「変タイマッサージ」の「タイ」を字で書けないが読める、だから母親がお店でしていることも書けないけど読める、と自己認識して、次のシーンではハムスターの心配をしている。「私」の人物像は、現実から遊離した捉えどころのないものとして描かれている。ここで言う「書けないけど読める」とは、母の性的サービスが具体的にどういうものかはわからないが、世間的には後ろ指を差されてしまうものだということは理解している、ということだろうか。

  • リアルなのかそうでないのかわからない子どもたち

ちなみに「変タイマッサージ」と言っていじめてくるシーンでは、「お金持ちの女子」とその取り巻きが加害者なのだが、

「あの子のお母さん、変タイマッサージなんだって」
(中略)
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
(『新潮』12月号 P137)

と取り巻きは付和雷同に復唱しているだけだ。しかしのちの授業参観のシーンでは、

(注:国語の授業で登場人物が泣いた理由を答えさせている)
それから何人かが順番に答えていって、先生がじゃあ次で最後と言ったら、お金持ちの女子がまっすぐ手をあげた。それを見た先生は、せっかくだからいつものなかよしグループみんなで答えてもらおうと言った。立ち上がった六人はそれぞれみんな目を合わせてから、何かをたしかめるように合図を送ったりした。六人の中でお金持ちの女子だけはお父さんが来てなかったけど、それでもお金持ちの女子のお母さんは首や耳がキラキラしてて、じゅうぶん目立ってた。
「泣いたのは、みんなのことがとってもだいすきだからです」
お金持ちの女子が答えて、後ろにいるお母さんと目を合わせて笑った。それから他の女子たちにまた合図を出して、自分の席にすわった。
「泣いたのは、自分がまちがってることに気づいたからです」
「泣いたのは、イヤなことをイヤってはっきり言えなかったからです」
「泣いたのは、そんな自分がなさけなくてゆるせなかったからです」
「泣いたのは、いつもまわりに合わせてばかりの自分を変えたかったからです」
「泣いたのは、今、変わりたい自分をこの先もずっとわすれないためです」
他の女子たちが言い終わると、しずまりかえってた教室の後ろからはく手が起こった。先生もおどろいた顔で手をたたいている。他の女子たちはおたがいの顔を見ながら笑い合っていて、なかまはずれになったお金持ちの女子だけが下を向いてた。そのあともしばらく、教室のざわざわは消えなかった。
(『新潮』12月号 P154−155)

と取り巻きが突如自我を持ち始めて叛逆する。この後、ペアで取り組む宿題が課され、「私」は「お金持ちの女子」が気になって様子を見にいく。

自分の席でずっと下を向いてるお金持ちの女子をみつけたとき、私はセミを思い出した。木に止まったセミを発見したときと同じ、あのワクワクした気持ちになったからだ。一人ぼっちでイスにすわってるお金持ちの女子は、木に止まってじっとしてるセミだった。でも、セミがちゃんと木になじんでるのとくらべたら、人間の形をしたお金持ちの女子がしっかり机にうき出てるのがおかしかった。みんなで集まってるときはあんなにうるさいのに、一人になったときはこんなにしずかだ。あんなに元気がないお金持ちの女子なら、私とでも友達になりたいんじゃないかと思って、何か話しかけてみたくなった。
でもよく考えたら、私はただセミをみつけたラッキーがうれしいだけで、べつにセミがほしいわけじゃなかった。
(『新潮』12月号 P155)

ここの「私」の意地悪加減はゾクゾクするほど面白い。このあと結局「お金持ちの女子」と「取り巻き」は何事もなかったかのように仲直りするのだが、もはや「取り巻き」は「取り巻き」ではなく意思を持った人間として現れている。
一連の流れが一読者として私はとても好きなのだが、本当にこれは子どもなのか?と訝しんでしまった。今まで主体性なく取り巻きのように振る舞っていた子どもが授業参観の場で突如自分の意見を発表するだろうか。「取り巻き」同士で「お金持ちの女子」を“ハブ”にしよう、と談合がまとまり反旗を翻したのならわかりやすいが、結局すぐに仲直りしている。この場面はものすごく面白かったが、作品全体の完成度という視点で見ると引っかかった。

  • 小説としての試み

この作品は子どもの感性を通してセックスワーカーの世間での扱われ方や母子家庭の貧困など社会問題をあらわにさせている。ただ、私はどうしてもそこにこの作品の本質があるとは思えない。問題を孕んだ家庭環境に材を取っているが、この作品は「私」という少女をひたすらリアルに描こうとした作品なのではないかと読んだ。地の文では作為的にひらがなや誤字が多用され、小学生らしい言葉遣いにされている。しかし感覚を言語化する能力は大人のそれであり、違和感がある。この違和感を作品の欠点と捉える人もいるかもしれないが、私はそこにこの作品の本質を見た。大人の力で、子どもの混沌とした思考や感覚を細かに表すとこういうふうになるのではないか。これまでにも子どもの残酷な混沌とした部分をリアルに表現してきた作品はあった。その混沌に大人がより細かに形を与えるとどうなるのか。そのような試みとしてこの作品は書かれたのではないかと感じている。
『群像』2021年1月号の小説合評でも本作は取り上げられており、そこでは反対に作者の書きたい絵のために登場人物たちが駒にされている、との指摘がなされていた。やはり語り口の巧みさと物語展開の澱みなさが、作者の作為性を浮き彫りにしているのだろう。そこがどう捉えられるかによってこの作品の評価は大きく変わる。おそらく芥川賞では瑕疵と捉えられ点数は低くなるだろう。単行本化して来期の野間文芸新人賞を受賞するのが自然な流れではないだろうか。掲載誌が『新潮』なので三島由紀夫賞が先かもしれない。

第164回直木賞① 受賞作予想『オルタネート』加藤シゲアキ(新潮社)

良質な学園SFを読んだ。

オルタネート

オルタネート

加藤シゲアキさんの『オルタネート』である。
「オルタネート」という高校生限定のSNSサービスが欠かせなくなった世界を舞台にした学園小説。3人の基点人物を軸としながら物語は進んでゆく。「オルタネート」にはSNS機能だけではなくマッチングアプリとしての機能も備わっている。
調理部の新見蓉(にいみ いるる)は高校生の料理コンテスト番組「ワンポーション」での優勝を目指している。「オルタネート」に対して強い抵抗を感じており利用していない。伴奈津(ばん なづ)は理想の相手を「オルタネート」で見つけるのだと息巻いている。容姿や直感で人を判断せず、さまざまなアプリと連携させ収集したビッグデータを基に相性のいい相手を見つけ出してくれる「オルタネート」のことを信奉している。楤丘尚志(たらおか なおし)はドラム好きの少年。高校を中退したことにより「オルタネート」が使えなくなったが、幼馴染のギター奏者「安辺豊」(あんべ ゆたか)を探して大阪から東京まで出てきた。

この作品の面白いところは第一に設定にある。「オルタネート」を利用することが当たり前の世界が無理なく立ち現れており、その中で高校生たちがどう振る舞うかにきちんと焦点が当てられている。例えば、「同性愛者の『ダイキ』が『オルタネート』を介して出会った同じく同性愛者の『ランディ』と始めたカップル動画で大人気になるも、やがて動画作りがメインの関係になってしまい破局する」というくだりなどは、自己顕示欲の塊のような高校生に気軽な発信の場が与えられている現代を戯画化したディストピア小説とさえ感じた。

この小説はどの登場人物もきっちり欠点が描かれているところも面白い。例を挙げると「蓉」の「ワンポーション」での対戦相手「三浦栄司」(みうら えいじ)は、さわやか好青年として登場し、やがて「蓉」と付き合い始める。好青年の「三浦君」だが、「ワンポーション」の主催者側から話題作りに二人の交際を公表したいという申し出に対し、「蓉」と相談もせず承諾してしまう。「三浦君」のこの行動は自己顕示欲の現れでもあるが、同時にプライベートまで曝け出さないと不誠実だと感じてしまうようなネット社会の気持ち悪さも感じさせた。やはりディストピアだ。他にも「奈津」が「オルタネート」を介して出会った男子高校生や、「尚志」が住んでいるシェアハウスの住人らも、取り上げればキリがないが皆気持ち悪い部分がきっちり描かれている。しかし作者はそれを気持ち悪いでしょ、と示すだけではなく、彼ら自身にそれを乗り越えさせている。そういった意味でとても優しく、さわやかな作品である。前述の「蓉」と「三浦君」も、詳細は避けるが無理なく二人でわだかまりを乗り越えている、と私は感じた。

さて、先に私は、この作品は設定が面白い、と言った。それは実際その通りなのだが、後半少し違和感を覚えた部分もある。料理番組「ワンポーション」の存在だ。「オルタネート」がうまく浸透して描かれている分、「ワンポーション」の存在が悪目立ちしてしまっている。お料理コンテストという設定が古臭く感じられて浮いて見えた。審査員のコメントは「蓉」のことを客観的に捉えた視点を作中で補強しており、作品に厚みをもたらしていたと思う。しかしここに関してだけはどうしても設定の無理を感じてしまった。
「奈津」や「尚志」も同様に葛藤を抱えながらもがいている。終盤はそれらの出来事が「今がクライマックスですよ!」と言わんばかりに目白押しになる。非常にまっすぐな小説だった。

文章は丁寧で展開にもついていきやすい。読みやすい小説だった。ただ直木賞の選考委員はひねくれ者が多いので、こういうまっすぐな作品は評価を受けづらいだろう。ただ候補となったことで、私を含めてこれまで手に取らなかった層の人々が読むきっかけとなるだろう。

英語勉強① ”Bluebird“ by Charles Bukowski

 最近、ボストンからの留学生に英語を教えてもらっている。学習したことを留めておくために、まとめてみたいと思う。
 訳は習った内容をもとに私自身がつけた。

 初回はチャールズ・ブコウスキーの「ブルーバード」という詩である。

there's a bluebird in my heart that
wants to get out
but I'm too tough for him,
I say, stay in there, I'm not going
to let anyone see
you.


there's a bluebird in my heart that
wants to get out
but I pour whiskey on him and inhale
cigarette smoke
and the whores and the bartenders
and the grocery clerks
never know that
he's
in there.


there's a bluebird in my heart that
wants to get out
but I'm too tough for him,
I say,
stay down, do you want to mess
me up?
you want to screw up the
works?
you want to blow my book sales in
Europe?


there's a bluebird in my heart that
wants to get out
but I'm too clever, I only let him out
at night sometimes
when everybody's asleep.
I say, I know that you're there,
so don't be
sad.
then I put him back,
but he's singing a little
in there, I haven't quite let him
die
and we sleep together like
that
with our
secret pact
and it's nice enough to
make a man
weep, but I don't
weep, do
you?

引用元:https://allpoetry.com/poem/8509539-Bluebird-by-Charles-Bukowski

一節ずつ見ていく。

there's a bluebird in my heart that
wants to get out
but I'm too tough for him,
I say, stay in there, I'm not going
to let anyone see
you.


俺の心に巣食う青い鳥
逃げようったってそうはいかねえ
俺はめちゃくちゃ厳しいんだぞ!
じっとしてろ!俺はお前を誰の目にも触れさせたくないんだ!

 作者の心の中にbluebirdがいるらしい。外へ出たがっているようだが作者は人目に触れさせたくないようだ。
 「there's a bluebird in my heart that wants to get out」の部分は各節の初めで用いられ、詩全体を通してのリズムを作っている。 訳出の際には口触りの良さを意識した。
 3行目の「I'm too tough for him」に関しては「俺はそいつ(ブルーバード)にとっては厳しすぎる」とでも訳すのがより正確だろうが、私が受け取ったニュアンスをそのまま日本語で表した。

there's a bluebird in my heart that
wants to get out
but I pour whiskey on him and inhale
cigarette smoke
and the whores and the bartenders
and the grocery clerks
never know that
he's
in there.


俺の心に巣食う青い鳥
逃げようったってそうはいかねえ
お前みたいな奴にはウイスキーをかけてやる
そんで俺はタバコを吹かすのさ
“させ子“さんだってバーテンダーだってスーパーの店員だって
この街の人間は誰もお前の存在には気付いてないんだ

 作者はどうもbluebirdのことを憎んでいる。街の人々にはbluebirdの存在は知られていない。人目に触れさせたくないという作者の願望は叶えられている。
 そして「whores」と「grocery clerks」に関して。これらは「bartenders」と並んで街の人々を表している。この部分で作者は、作者の近所の人々にもbluebirdは知られていない、ということを示している(※追記:友人から「ウイスキーとタバコの力を借りてブルーバードが人目に触れないようにしているのではないか」との指摘を受けた。非常に納得のできる説であるため付記しておく)。ここで直訳的に「売春婦」「食料雑貨店の店員」と訳すと、少し雰囲気が削がれると私は感じた。「whores」に関しては「娼婦」でもよかったのだが、やはり身の回りの人ということで極力厳しさ(いかめしさ)を消すため、ひらがなの多い「させ子」という言葉を用いた。「grocery」は「スーパー」よりは小規模な店を表しているが、現代日本の我々にとって「食料雑貨店」というよりも「スーパー」といった方が通りはいいだろう。ここで「コンビニ」とするとまた違ったニュアンスが出てくるのでなかなか難しい。当時の時代感を極力損なわないようにしつつ現代日本で伝わりやすいギリギリのラインを攻めた。

there's a bluebird in my heart that
wants to get out
but I'm too tough for him,
I say,
stay down, do you want to mess
me up?
you want to screw up the
works?
you want to blow my book sales in
Europe?


俺の心に巣食う青い鳥
逃げようったってそうはいかねえ
俺みたいな大人に楯突くんじゃねえ
おとなしくしてろ!俺をイライラさせたいのか?
俺をめちゃくちゃにしたいのか?
ヨーロッパでの俺の本の売り上げを台無しにしたいのか?

 まだまだblubirdは外へ出たがる。しかし作者は頭ごなしに押さえ込もうとしている。
 1節目で使われた「but I'm too tough for him」という表現が再出しているので、訳も合わせた方が良いのだが敢えて変えた。次節で同様の「but I'm too ~~」という表現が出てくるが、どうしても「but」の訳出がうまくいかないため別の訳し方になってしまった。そのため、各節の繰り返しは、訳出においては「there's a bluebird ~~ to get out」の部分だけだということにさせてもらった。そのことを示すため、意図的に訳出の表現を変えた。これは作者の創作上の意図を削ぐことになり、訳出にあたる姿勢としては良くないかもしれない。
 さて、この節は比較的平易な表現が多いのだが、一つだけ注意が必要な単語がある。「works」だ。「仕事」という意味の「work」は不可算名詞なので「works」とはならない。最初私は受験英語の知識から、「可算名詞の“work”だから『作品』と訳そう!」と考えたが大きなバツをもらった。先生によるとここでの「works」はある装置の内部機構(例えば建物にとっての配管など)を示す単語だという。ここでは直訳的には「私の内部機構」を示すと解釈した。そのまま訳出すれば日本語としておかしくなるので敢えて字義的な訳は伏せている。ニュアンスは伝えられたが、作者の言葉選びのセンスは少し損ねてしまったと思う。この箇所の訳出に関していい案があればぜひ教えてほしい。

there's a bluebird in my heart that
wants to get out
but I'm too clever, I only let him out
at night sometimes
when everybody's asleep.
I say, I know that you're there,
so don't be
sad.
then I put him back,
but he's singing a little
in there, I haven't quite let him
die
and we sleep together like
that
with our
secret pact
and it's nice enough to
make a man
weep, but I don't
weep, do
you?


俺の心に巣食う青い鳥
逃げようたってそうはいかねえ
ただし俺は切れ者だから
ときどき夜の間だけはお前を遊ばせてやる
みんな寝静まった頃だ
なあに俺はお前がそこにいることは知っているさ
悲しむことはない
やがて俺はお前を連れ戻すがお前は小さな声で歌い続けている
俺はお前を死なせたりはしねえよ
俺とお前はいつだってこんな風に、秘密の契約に基づいて一緒に眠るんだ
こんな話を聞くと感動のあまり泣き出したくなるような奴だっているだろう
でも俺は泣かねえ
そこのお前はどうだ?

 最終節である。作者はbluebirdを夜の間だけこっそり外で遊ばせてやるらしい。街の人々はbluebirdの存在は知らないが、作者だけはbluebirdの存在を確かに知っている。だから悲しむことはないのだ。朝がくればbluebirdをまた心の中に仕舞い込む。でも死なせることはない。作者とbluebirdの関係は「secret pact」に基づいている。一生離れられないようになっているのだろう。夜になると一緒に眠るという。

 さて、どうしてこの話を聞いて感動して泣きそうになるのだろうか。
 お預けにしていたが、この問いに答えるにはまず「bluebird」が何を示しているかを紐解かなければならない。この文章は詩であり、修辞が用いられている。「bluebird」は何かの隠喩である。
 これをどう解釈するのも自由である。私は「自分の心の弱さ」だと解釈した。できるだけ恥ずかしい部分を人目には触れさせたくない。周りの人々は私のことを強い人間だと思っている。しかし私には弱い部分がある。一人の夜にはそっとそんな弱い自分を見つめ直してあげる。決して弱い自分のことを否定するのではなく、そんな部分も含めて自分を受け入れる。どうだい、いい話だろう?泣きたくなったんじゃないか?というわけだ。

俺の心に巣食う青い鳥
逃げようったってそうはいかねえ
俺はめちゃくちゃ厳しいんだぞ!
じっとしてろ!俺はお前を誰の目にも触れさせたくないんだ!


俺の心に巣食う青い鳥
逃げようったってそうはいかねえ
お前みたいな奴にはウイスキーをかけてやる
そんで俺はタバコを吹かすのさ
“させ子“さんだってバーテンダーだってスーパーの店員だって
この街の人間は誰もお前の存在には気付いてないんだ


俺の心に巣食う青い鳥
逃げようったってそうはいかねえ
俺みたいな大人に楯突くんじゃねえ
おとなしくしてろ!俺をイライラさせたいのか?
俺をめちゃくちゃにしたいのか?
ヨーロッパでの俺の本の売り上げを台無しにしたいのか?


俺の心に巣食う青い鳥
逃げようたってそうはいかねえ
ただし俺は切れ者だから
ときどき夜の間だけはお前を遊ばせてやる
みんな寝静まった頃だ
なあに俺はお前がそこにいることは知っているさ
悲しむことはない
やがて俺はお前を連れ戻すがお前は小さな声で歌い続けている
俺はお前を死なせたりはしねえよ
俺とお前はいつだってこんな風に、秘密の契約に基づいて一緒に眠るんだ
こんな話を聞くと感動のあまり泣き出したくなるような奴だっているだろう
でも俺は泣かねえ
そこのお前はどうだ?

 これまで本を読む方だったが、日本語の小説が大半で、詩はほとんど読んだことがなかった。英語の文章を読むなんて初めから諦めていた。しかし英語で詩を読み、それを日本語で表現することは、これまでにない新しい読書体験をもたらしてくれた。0から創作をするのはとても大変だが、「この内容を自分ならこう伝えるな」と考えながら文章を作る作業は、創作と読書のちょうど中間を感じさせとてもエキサイティングだった。英語の勉強だけではなく、日本語の文章術の訓練にもなっている。今後も折を見て継続していきたい。

ダンディズムあれこれ試論

 忙しい日々に押し流されて生きている人は、自分の足で立つことから始めよう。他人や社会はあなたのことを気にかけない。自分のことを一番親身に考え、理解しようと努めてくれるのは、他でもない自分自身だけだ。

 最近に始まったことではないが、疲れやすくなった。たまの日曜サンデーというのに、何が因果というものか。時間を持て余し何もせずただ窓を眺めたり眺めなかったりしながら日が暮れてゆくのをじりじりと待っている。無気力かつ怠惰。世界から離脱したいなとぼんやりしている。
 そんな日々がおもしろいわけもなく、平日は「明日頑張るために」と今の自分を甘やかし、休日は何もかも放棄し無と一体化している。人生においては平日も休日も変わりなく有限であり、役割の違いこそあれどちらも重要な人生の一部だ。私はそのどちらからも、自分の人生がぎりぎりと削り取られていくような不思議な焦燥と疲労を感じている。
 なぜだろうね。基本的に“なぜ”という問いが苦手な私は腹も空いていないのにものを食べさっさと眠ってしまう。しかし先日来、いよいよこの問いが脳裏を席巻し離れなくなってしまい、仕方なく向き合うこととなった。
 
 自分以外の何かに忙殺され余裕を失ってしまうと、人生はどつぼにハマる。みなそれぞれの人生を歩まなくてはならないのに、自分の人生を考えるゆとりさえ失い、大きな共同体である社会の一部としての役割ばかり全うしようとしてしまう。おもしろくないのでやる気が出ない。さらには「私はこんなことがしたいのではない」と無気力を正当化し、より無気力な人間になってゆく。「働いたら負け」の境地に辿り着くのも時間の問題となる。
 何かやりたいことに向かって一生懸命取り組んでいる時の方がおもしろいのに、そこから遠ざかるように自分を追い込んでしまう。このように、余裕がないと限界の状況でただ命をすり減らすだけのおもしろくない日々を送ることになる可能性が高い。人生を消費するだけのいつものルーティンの中に幸福が訪れることは奇跡でしかなく、奇跡はまず起こらないので期待してもその後には落胆が待っているだけだ。異世界転生はフィクションだ。
 ただし怠惰や無気力の元凶を学校や会社だけに求め、自分に余裕をもたらすため学校や会社を休んだり辞めたりしても人生が好転するとは限らない。染み付いた怠惰と無気力は根深いもので、1日2日ではまず治らないし、1年かけても治る確率は低い。休んだり辞めたりするにしても心の準備が必要だ。時間があればやりたいと思っていることのうち、時間があるときに実行できるのはほんのほんのほんのごくごくごくごく一部だけだ。気まぐれに部屋の掃除をするなど。
 そもそも余裕がなくなるような生活をする羽目になった原因を作ったのは自分だ。学校へ行く、仕事をするなどを生活上の不安と天秤にかけて自ら進んで選んだのだ。生活にとって金子を得ることは不可欠だが、そのために自分を偽っていては無気力なタンパク質に成り下がってしまう。選択をするときには、不安を直ちに解消するようなもっともらしい選択肢を取るのではなく、自分を偽らずに生活を営んで行けるような選択を落ち着いてできる心構えが必要だ。家族や近しい人々が「大学くらい行かないと苦労するよ」「定職にも就かずフラフラして」と言うときに、すぐ流され受験や就活をするのではなく、きちんと自分の頭で考えあくまで自分の意志で行動できるような状態が望ましい。さもなくばまた不安に駆られ同じような選択をして人生をすり減らすだけだ。

 私は最近、誰にでもその人なりの“ダンディズム”があって、それに従って生きているときに自分のことを好きになれるのではないか、と感じている。ダンディズムと聞くとどうしても男性のイメージが強く醸し出されるが、今回は特に性差を意識せずこの語を用いる。
 友人A君は「おもしろくない」やつのことを心から「ダサい」と言って毛嫌いしている。それは寡黙な人のことをバカにしているのではなく、むしろ「私はお前らにユーモアを提供してやっている」という顔をしながら、その実ハラスメントまがいのいじりや突拍子もない自分語りに終始している人間にはなりたくない、ということを意味する。私もA君が毛嫌いするような「似非ひょうきんもの」は苦手だが、そこまで価値観の中心には置いていなかった。きっとA君にとっては「スマートなユーモアを有している」ということがダンディズムにあたるのだろう。
 私の場合は、「常識を引き合いに出すような奴はダサい」という感覚が価値観の中心にある。人間関係はどんな場合でも「1対1」を起点にすると考えているので、その1対1の関係性において常識は意味を持つのだろうか。単に自分の主張を「常識」を笠にきて押し付けようとしている詭弁なのではないか、という疑念を抱いてしまう。しかしこういう私の考え方自体あっという間に屁理屈に堕してしまうので難儀だ。人と話すときにはできるだけ、個別具体的なその人の考え方を尊重しながら自分の意見を伝えようと思っているが、これは結局余計な自分語りに終始してしまうことも多く、そんなときは普通に萎える。難しいが、やはりこのダンディズムは揺るがないものであり、私の大切な価値観だ。

 生活環境を考えるときにもできるだけ自分のダンディズムを汲みながら行うのがよい。組織に入るということは多かれ少なかれ自分のダンディズムを制御しながら、自分のダンディズムから見ると「ダサい」人間に相対することを意味する。無論生活の安定は得られることが多い。反対にフリーターやフリーランスとして所属や帰属をせずにできる限り一人で生きてゆくことを選択すれば、直接自分のダンディズムが迫害されることは少ないかもしれない。無論安定は組織に入るよりは低下することが多い。フリーランスと言っても山籠りをして自給自足でもしない限り人と関わるはずなので、多かれ少なかれ人間関係は発生してしまうのだが、一つの人間関係への依存度が下がるので精神衛生は保ちやすい。組織内部はどうしても閉ざされているので逃げ場が少ない。組織からの離脱をもってしてしか解決できない案件も多い。
 組織へ入るとしてもフリーランスを選ぶとしても、関わることになる人間がダサいかどうかは未知数なので、できる限り自分のダンディズムに配慮できるような逃げ道を確保できる環境を選ぶことが長続きする秘訣なのかもしれない。と、バー通いを始めて思った。結論が飛躍し徐々に文章が抽象的になってしまったうえ自分語りとなってしまったが、今の気持ちが留められてよかった。

第164回芥川賞② 候補作予想「推し、燃ゆ」宇佐美りん(『文藝』2020秋季号)

宇佐美さんは先日文藝賞受賞作の『かか』で三島賞も受賞された。同期受賞の遠野遥さんも先日の芥川賞を受賞されている。文藝賞、アツい。

文藝 2020年秋季号

文藝 2020年秋季号

  • 発売日: 2020/07/07
  • メディア: 雑誌
今回はそんな宇佐美さんの「推し、燃ゆ」を取り上げる。アイドルに入れ上げて「トップオタ」としてライブへの参戦だけでなくSNSでの発信やブログの運営にも余念がないあかり。高校生だがきちんとバイトもして自分のお金でアイドルに入れ込んでいるところは根性があって好感が持てる。そんな全力で応援している“推し“の真幸くんがファンを殴ったらしい、というフレーズから物語は始まる。
オタクの人々がネットを介して群れる様がリアルで読んでいてしんどくなる。こういう世界もあるのかと中高年はしたり顔でアゴを撫でるかもしれない。
現実を生きる母と姉からはダメ人間のレッテルを貼られ、それでも推しへの愛だけは揺るがない。子供の頃に勉強でつまづき、そのまま特に何かに努力することもなく、世間的には大人しいが故に“真面目”と評されるただの怠け者。あかりはそんな人物である。

推しを本気で追いかける。推しを解釈してブログに残す。テレビの録画を戻しメモを取りながら、以前姉がこういう静けさで勉強に打ち込んでいた瞬間があったなと思った。全身全霊で打ち込めることが、あたしにもあるという事実を推しが教えてくれた。
(『文藝』P31)

本作とは直接の連関がなくて申し訳ないが、私は読みながら、人間は思い込んで執着して生きてゆくものだという実感を強めていた。怠惰に時を過ごすより一生懸命に生きているときの方が充実している。それが社会に適合した方法で一生懸命になれれば賞賛されるが、非適合な方法であれば愚かだとなじられバカにされる。“推し“に生活の全てで浸かり込むと言うのは非適合な方法だった。しかも自分の拠って立つものがその“推し”であると言うのは、自己存在の核を外注しているようなもので不用心極まりない。結局作中で“推し“の真幸くんは芸能界を引退してしまう。ラストは人によって色々な捉え方があるだろうが、“推し“といういわばまやかしが失われて、初めてあかりは自分の生を歩み出すのではないだろうか。
私もアイドルが好きなので、いわゆる“推し”という概念それ自体に疑義を呈したいわけではない。作中で扱われている“推し”は、自己陶酔のモチーフであり、20年前に町田康氏が「くっすん大黒」でデビューした際によく聞かれた「下降への意志」を再解釈して表現したものだと思った。
今後も追いかけたい作家さんである。三島賞を取ったぞ、次は芥川賞だ!と意気込んでおられるかどうかはわからない。この作品は取り上げたテーマは重いが、扱っているモチーフが軽く感じられるため賞では少し不利かもしれない。そもそもノミネートされるかも不確かだが、選考会でどう扱われるかはぜひ見たいものである。