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ダンディズムあれこれ試論

 忙しい日々に押し流されて生きている人は、自分の足で立つことから始めよう。他人や社会はあなたのことを気にかけない。自分のことを一番親身に考え、理解しようと努めてくれるのは、他でもない自分自身だけだ。

 最近に始まったことではないが、疲れやすくなった。たまの日曜サンデーというのに、何が因果というものか。時間を持て余し何もせずただ窓を眺めたり眺めなかったりしながら日が暮れてゆくのをじりじりと待っている。無気力かつ怠惰。世界から離脱したいなとぼんやりしている。
 そんな日々がおもしろいわけもなく、平日は「明日頑張るために」と今の自分を甘やかし、休日は何もかも放棄し無と一体化している。人生においては平日も休日も変わりなく有限であり、役割の違いこそあれどちらも重要な人生の一部だ。私はそのどちらからも、自分の人生がぎりぎりと削り取られていくような不思議な焦燥と疲労を感じている。
 なぜだろうね。基本的に“なぜ”という問いが苦手な私は腹も空いていないのにものを食べさっさと眠ってしまう。しかし先日来、いよいよこの問いが脳裏を席巻し離れなくなってしまい、仕方なく向き合うこととなった。
 
 自分以外の何かに忙殺され余裕を失ってしまうと、人生はどつぼにハマる。みなそれぞれの人生を歩まなくてはならないのに、自分の人生を考えるゆとりさえ失い、大きな共同体である社会の一部としての役割ばかり全うしようとしてしまう。おもしろくないのでやる気が出ない。さらには「私はこんなことがしたいのではない」と無気力を正当化し、より無気力な人間になってゆく。「働いたら負け」の境地に辿り着くのも時間の問題となる。
 何かやりたいことに向かって一生懸命取り組んでいる時の方がおもしろいのに、そこから遠ざかるように自分を追い込んでしまう。このように、余裕がないと限界の状況でただ命をすり減らすだけのおもしろくない日々を送ることになる可能性が高い。人生を消費するだけのいつものルーティンの中に幸福が訪れることは奇跡でしかなく、奇跡はまず起こらないので期待してもその後には落胆が待っているだけだ。異世界転生はフィクションだ。
 ただし怠惰や無気力の元凶を学校や会社だけに求め、自分に余裕をもたらすため学校や会社を休んだり辞めたりしても人生が好転するとは限らない。染み付いた怠惰と無気力は根深いもので、1日2日ではまず治らないし、1年かけても治る確率は低い。休んだり辞めたりするにしても心の準備が必要だ。時間があればやりたいと思っていることのうち、時間があるときに実行できるのはほんのほんのほんのごくごくごくごく一部だけだ。気まぐれに部屋の掃除をするなど。
 そもそも余裕がなくなるような生活をする羽目になった原因を作ったのは自分だ。学校へ行く、仕事をするなどを生活上の不安と天秤にかけて自ら進んで選んだのだ。生活にとって金子を得ることは不可欠だが、そのために自分を偽っていては無気力なタンパク質に成り下がってしまう。選択をするときには、不安を直ちに解消するようなもっともらしい選択肢を取るのではなく、自分を偽らずに生活を営んで行けるような選択を落ち着いてできる心構えが必要だ。家族や近しい人々が「大学くらい行かないと苦労するよ」「定職にも就かずフラフラして」と言うときに、すぐ流され受験や就活をするのではなく、きちんと自分の頭で考えあくまで自分の意志で行動できるような状態が望ましい。さもなくばまた不安に駆られ同じような選択をして人生をすり減らすだけだ。

 私は最近、誰にでもその人なりの“ダンディズム”があって、それに従って生きているときに自分のことを好きになれるのではないか、と感じている。ダンディズムと聞くとどうしても男性のイメージが強く醸し出されるが、今回は特に性差を意識せずこの語を用いる。
 友人A君は「おもしろくない」やつのことを心から「ダサい」と言って毛嫌いしている。それは寡黙な人のことをバカにしているのではなく、むしろ「私はお前らにユーモアを提供してやっている」という顔をしながら、その実ハラスメントまがいのいじりや突拍子もない自分語りに終始している人間にはなりたくない、ということを意味する。私もA君が毛嫌いするような「似非ひょうきんもの」は苦手だが、そこまで価値観の中心には置いていなかった。きっとA君にとっては「スマートなユーモアを有している」ということがダンディズムにあたるのだろう。
 私の場合は、「常識を引き合いに出すような奴はダサい」という感覚が価値観の中心にある。人間関係はどんな場合でも「1対1」を起点にすると考えているので、その1対1の関係性において常識は意味を持つのだろうか。単に自分の主張を「常識」を笠にきて押し付けようとしている詭弁なのではないか、という疑念を抱いてしまう。しかしこういう私の考え方自体あっという間に屁理屈に堕してしまうので難儀だ。人と話すときにはできるだけ、個別具体的なその人の考え方を尊重しながら自分の意見を伝えようと思っているが、これは結局余計な自分語りに終始してしまうことも多く、そんなときは普通に萎える。難しいが、やはりこのダンディズムは揺るがないものであり、私の大切な価値観だ。

 生活環境を考えるときにもできるだけ自分のダンディズムを汲みながら行うのがよい。組織に入るということは多かれ少なかれ自分のダンディズムを制御しながら、自分のダンディズムから見ると「ダサい」人間に相対することを意味する。無論生活の安定は得られることが多い。反対にフリーターやフリーランスとして所属や帰属をせずにできる限り一人で生きてゆくことを選択すれば、直接自分のダンディズムが迫害されることは少ないかもしれない。無論安定は組織に入るよりは低下することが多い。フリーランスと言っても山籠りをして自給自足でもしない限り人と関わるはずなので、多かれ少なかれ人間関係は発生してしまうのだが、一つの人間関係への依存度が下がるので精神衛生は保ちやすい。組織内部はどうしても閉ざされているので逃げ場が少ない。組織からの離脱をもってしてしか解決できない案件も多い。
 組織へ入るとしてもフリーランスを選ぶとしても、関わることになる人間がダサいかどうかは未知数なので、できる限り自分のダンディズムに配慮できるような逃げ道を確保できる環境を選ぶことが長続きする秘訣なのかもしれない。と、バー通いを始めて思った。結論が飛躍し徐々に文章が抽象的になってしまったうえ自分語りとなってしまったが、今の気持ちが留められてよかった。