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第164回芥川賞④ 受賞作予想「小隊」砂川文次(『文學界』2020年9月号)

非常に重厚な作品だった。砂川さんの「小隊」である。

  • 大枠

外交上の問題でロシアとの間に戦争が起こっている。舞台は北海道。すでに敵軍は上陸してきており自衛隊が陣営を敷いて迎撃に備える。前線部隊の小隊長である安達を中心に据えた3人称の語り口で物語は綴られる。安達は幹部候補生であり、まだかなり年若い。部下にも年上の士官が多い。普段は階級上の上下関係を守りながらも、先輩士官たちに色々教えてもらったりしている。
緊迫する現代の国際情勢を鑑みれば一笑に付すこともできない設定である。政治家たちは中身のない会議ばかりを繰り返し世論はハト派タカ派も前線にいる隊員が血を流すことには思い至らず好き勝手な議論をしている。自衛隊自衛隊で、政治家たちのまとまらないオピニオンのままに上層部が振り回され、情報は過早あるいは直前にもたらされる。隊員たちはもはや諦めきっており、このような非現実的な非人道的な状況さえも受け入れるしかなく、その中での次善の策を、長年の訓練の結果身体に染み付いた「義務」に突き動かされる形で遂行していく。

  • 「義務」

安達が「義務」として捉えている彼の行動原理が会得されていく過程は非常にリアルだった。もちろん長年の訓練を通して醸成されているものではあるが、非戦闘時にはそこまでの気迫を持って彼を突き動かすものではなかった。実際に戦闘が始まり身近に死を感じる状況になって、頭は理性は完全に混乱しているにもかかわらず、身体だけはやけに冷静に為すべきことを為していく。彼は何度となく自分の「義務」に従った行動を、行動ののちに遅れて頭で認識している。

〈砲撃を受けた部隊の隊員今井が戦意を喪失している場面〉
 自分の右足が持ち上がり、目の前に突き出る。これは本当に自分がやっていることなのだろうか。頭に血が上っている。でも怒りじゃない。近いが、もっと別のものだ。恍惚に似ているが、もちろん恍惚でもない。足が、今井の側頭部にめり込む。初めて人を蹴り飛ばした。今井は両手で蹴られた部分を必死に押さえ、瞬きも忘れて目を見開いている。
「てめえこの野郎テッパチかぶれ。戦え」
 まくし立てる。自分の声とは思えなかった。
(『文學界』9月号 P85−86)

(先輩士官が安達の命令に食ってかかった場面)
「これでも、まだ続けるんですか」
 再編を思案しているときだった。声の主は1分隊長の佐藤1曹だった。1分隊は元の七名から四名にまで減っている。当然といえば当然だが、各分隊長はみな上級陸曹で安達なんかよりもずっと勤続年数が長かった。疑問系を取ってはいたが、語気は荒い。若い陸士を問い詰めるときなんかにそっくりだ。それでも安達は怯まなかった。
「続ける」
 心にもないことをきっぱりと言ってのけた。自分でもよくわからなかった。佐藤は質問をしたにもかかわらず、安達の答えにさらに食って掛かるようなことはしなかった。ひょっとすると、佐藤の方でもこのせりふを待ち受けていたのかもしれなかった。
(『文學界』9月号 P90)

安達が一種取り憑かれたように隊長としての役割を演じることで、彼の所属する隊は組織として回っていく。安達自身の意思よりももっと大きな組織の意思に突き動かされる形で(安達はそれを「義務」と表現している)、安達は為すべきことを為している。この生成変化が、どうにも避けられないものとして立ち現れているところに、本作の熱が込められていると感じた。その熱は確かな描写によってこれでもかというほど伝わってきた。前作は地の文で思弁を露わに書きすぎていたため、ややうるさく感じられたが、この作品はまさに「小説」らしく、物語は澱みなく進行してゆき、その中で登場人物の思考を追体験する形で作者が一番熱を持って伝えたいことが伝わってきた。
もちろん安達の感情が雄弁に語られているところもある。しかしそこはむしろ安達の生成変化に伴う痛切な叫びとして描かれており、とても迫力がある。

自分を支えるのは不撓不屈の精神でも高邁な使命感でも崇高な愛国心でもなく、ただ一個の義務だった。3等陸尉という階級に付随する、無数の手続きが、総じて一つの義務となり、自分を支えている。安達は、もう勘弁してくれ、と強く思っていたが、身体は常に義務に忠実で、今も強く指揮下部隊を掌握し、適時適切な状況把握に努めようとしている。
(『文學界』9月号 P85)

  • 受賞可能性

前作は細部の書き込みは評価されたが、作品全体を俯瞰した上での評価は芳しくなかった。今作は細部の書き込みという持ち味はそのままに、弱点だった部分が見事に克服されていると思う。掲載誌の『文學界』では表紙に名前すら出ておらず、巻頭掲載でもなかったため、編集部として芥川賞を狙った作品ではなかったのかもしれない。しかしこういった作品をきちんと評価する選考委員であれば、これはかなりいい線までいくのではないだろうか。期待も込めてこの作品は現段階での本命である。対抗はまだ読めていない乗代さんの作品だ。発表までにはきちんと読んで予想をまとめたいと思う。