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方言はカレー味

私は普段、小さいメモ帳を持ち歩いている。電子端末のメモ機能、ではなく、紙とペンである。そこに書き連ねるのは生の衝動、のようなものが多く、あとで見返してみるとそこには勢い以外に何もなく、意味を抽出するのは困難を極める、ということが多い。

松尾さん

隣の女は胃下垂

向かいの男は住所を知らない 

私に松尾さん、という知り合いはいない。隣の女、とは順当に考えれば松尾さんの隣にいる女だろうか。さらに向かいの男は住所を覚えていないという。日常いろいろ不便なこともあるだろう。向かいというのは隣の女、の向かいなのだろうか。それとも松尾さんの向かいなのだろうか。松尾さんと女は隣り合っているので男がそれに対峙する側面にいることはわかるが、それ以上は特定できない。というか私はなぜこんなことを書いたのか、特定できる見込みはなく非常にもどかしい。

 そんな混沌としたメモ帳の一角に、しっかりと記憶を呼び起こしてくれるすばらしいメモがあった。

方言はカレー味

これははっきりと覚えている。小説好きの友人と徒然に語り合っていたなかで 、小説中における方言について話したのだ。私も友人も小説に登場する方言についてあまり肯定的には捉えていない。それは本来テキストのみで構成される小説という世界において、方言の存在が強烈すぎるからである。カレー粉を使えばすべての料理をカレー味にできるように、文中に方言を使うと方言一色に染まってしまう危険がある。一言で言うと、方言の存在は小説のバランスを狂わせる。そう私たちは認識している。

イメージとしては、名探偵コナンにおける服部の大阪弁である。彼の大阪弁はイントネーションもおかしく「~さかい」など現代人はとうてい使わないような言い回しを好んでおりまったくリアリティがない。服部、というキャラクターを立たせるためだけの道具なのである。

 

方言を用いるのは、たとえば土着的な息遣いを感じさせたい作品などで効果的であろう。あまり面白いとは思わなかったのだが、玄月さんの「蔭の棲みか」という作品ではバラック住まいの在日韓国人たちのコミュニティがムッとする空気をまとって立ち上ってきた。

蔭の棲みか

蔭の棲みか

 

 

土着でないとすると、思弁を表すうえで方言は有用である。日本人ならば日本語で思弁するだろう。わざわざ英語で思弁する人はいないと思う。思弁は己の母語で行うのが一般的である。さらに言うと、日本語の中でも己に最も深く染みついた方言で行うだろう。わざわざ東京弁で思弁するような気取った感覚はリアリティがない。思弁を示す方言が最も成功した作品は、町田康さんの『告白』である。熊太郎の思弁は、あの河内弁でしか表現しえなかった。最近では前回の芥川賞受賞作「おらおらでひとりいぐも」の作中で、東北弁が思弁に用いられている。

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

 
おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

 

 

私たちが好まない方言の用いられ方は、「無意識的な方言」である。方言は通用する範囲が狭い。大阪の人は大阪弁で書かれた文章を読み解くこともできるだろうが、町田さんの『告白』は大阪の人間でも読み解くのは難しいと感じたかもしれない。読者を限定してしまう方言という技法を無意識で用いてしまうデリカシーのなさをこそ憎んでいる。

地方を舞台にした小説を書きたい!と思うことは自由である。好きに書いて満足するのも趣味としては健全である。しかしこれをプロの仕事として発表するのであれば一度立ち止まって考える必要がある。地方を舞台にしながら読みやすい標準語で紡がれた物語も存在する。

方言に限らず、空白や※でこまめに文章を分けたり、会話文の中で改行をしたりするときにも一度立ち止まって然るべきである。文章の一つ文字の一つにまで配慮しなければプロの仕事とは言えない。

なんとなくキャラクターを強くしたくて、地方を舞台にしてみたくて。それ以上の強い理由がある方言小説を読んでみたいと思っている。すみずみまで作者の心配りと企みが張り巡らされた文章というのはそれはそれはきもちのいいものなのだ。