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第160回芥川賞⑬ 候補作予想「1R1分34秒」町屋良平(『新潮』11月号)

 期待に胸を膨らませて裏切られないことはあまりない。私は町屋さんの作品に期待しながらも悪い意味で裏切られることを予想していたので、もしかしたら心の底からは期待していなかったのかもしれない。それでも「1R1分34秒」という作品は、私の期待に応えてくれた、と大声で触れ回りたい。

新潮 2018年 11 月号

新潮 2018年 11 月号

 

 この作品は、私のなかでは「自意識肥大モノ」として分類している。プロボクサーの主人公はデビューこそKOを飾ったもののその後は鳴かず飛ばずの体たらく。試合後に体に残る痛みにボクサーとしての存在証明を頼るほどの情けなさ。負け続けの自分に一番愛想を尽かしているのは自分だが、周囲から人がいなくなることにも焦燥感を覚える。ついにトレーナーからも見放されたが代わりに担当についたウメキチとの出会いが転機となる。

 それまで思弁的な自己の性質やトレーニングの詰めの甘さなど、自分に関する事象を否定ばかりしてきた主人公に対し、ウメキチは冷静に長所も短所も認め指摘する。それまで人との深い関わりを意識的に避けてきたことも相俟って、自分の知っている自分にこだわり続けていたが、まっすぐ主人公と向き合うウメキチのありように、「ウメキチを信頼するというゲーム」には乗ってみてもいいかもしれない、とまで思うようになる。このあたりの素直じゃない感じがかわいい。

 こう書くとありきたりな成長小説に感じられるだろう。実際それは否定しない。しかしその王道を見事に結実させた胆力には敬意を表すべきである。

 特に文章が私の好みであり、隅々まで物語を楽しむことができた。

 なんの法をもおかした経験はないのに、敗戦ごとのこの目前まっくら現象において、前科数犯のごとききもちでめざめる朝ばかり。

(P92)

 恐るべき自意識。確かにプロである以上ボクシングによって金子を得ているのであり、そこには責任もつきまとう。罪悪感を感じることもあながち間違ってはいないだろうが、犯罪をしたかのような錯覚は明らかに尋常ではない。 

 主観は役に立たないから捨てたいのに、感情はしずかな火を燃やしている。熱量の付きそうなときにくべられる、燃料の内実はなんなのだろう?火のついた薪の芯が時おりポワッとひかるように、ところどころに残っているだけの火の残滓は、まだ燃えていると言えるか?

(P96)

 自我や理性が諦めろ、と言っても感情がそれを許さない。

 煙でもうもうしている視界で周囲を検めると、名前もうろおぼえな同僚たちもなぜかきている。店長は最初こそ抑制していたが、アルコールにアクセルを踏んでぼくの試合のダメ出しをしてきた。こういうことには馴れているのでききながして肉に集中しているが、どうやら試合を観にきてはいないらしい。想像で拵えられたぼくの弱点、「あたまで考えすぎ」、「魂の欠けた」、「いくとこでいけない」、「走り込みの足りない」のひとつひとつが的を射ている気がするのは、ぼくが試合に敗けたせいで、それたったひとつだ。勝った要因は皆ひとつに絞りたがり、大抵は間違っている。敗けた要因は皆百個も二百個もおもいつき、すべて正しい。これが勝負ということだ。肉がうまいのでどうでもよかった。酒はのまない。節制ですらなく、単純にすごい頭痛だから。

 それにしても、ぼくが三ラウンドKO敗けというだけで三百の敗因をおもいつくのに、ボクサーの周囲でスパスパ煙草を吸う想像力の落差がひどい。お前らのせいでスタミナがきれたんだ、と呪う。呪うのはタダ。他人を呪う罪悪感すら自分でことばを紡ぐ労力に比べるとはるかに楽で、肉を食った精力をぐいぐい呪いに変換していく。はやくパンチドランカーになってしまえれば、この呪いや疚しさからも逃れられるだろうか。真剣に物忘れに悩んでいても、どうしてもドランカーは幸福そうにみえる。

(P102)

 想像から放たれる叱責、それを受け流す主人公、なんにも生み出さないひたすら罪深い時間は日常にも転がっているだろう。

 ぼくはだれとも仲よくなんてしたくない。さみしがり屋のくせに、ひとに気をつかわれるのはいやだ。プライドばかり邪魔をする。素直に「いっしょに遊ぼう」がいえない子どものまま、いまに至っている。

(P113)

 自意識の強さは育ってゆくなかで醸成されてゆくのだろう。折りに触れ幼少期の原体験は掘り起こそうとしてしまうもの。

 日々が日々をうしないはじめた。

(P114)

 こんな詩的な表現をぽんと放り込んでくるから心がくすぐられる。

 ほかにも抜粋しだすときりがない。本当にいい表現のオンパレードだった。友人が最後まで「友だち」と書かれていたことにもいろいろ感じたがここでは措く。

 最後に主人公の一人称が「ぼく」だったことについて。一般に、男性の一人称は「おれ」が多数だと思う。わざわざ「ぼく」という一人称を用いるのは、私は幼少期からの脱却ができていないからだとみる。一度「ぼく」という一人称を身に着けてしまうと、どこかで意識しない限り「おれ」へと生まれ変わることはできない。ここにも幼少期のひきずりを勝手に感じていた。もしこれが意識的に「ぼく」という一人称を獲得していたのだとして、それはそれでやはり自意識の産物だ。総じて「ぼく」という一人称からはめんどうくさい印象を醸し出すことができる。誤解のないように言っておくが、私は「ぼく」という一人称の人物は好きである。

 

 このブログへの引用量が多い作品ほど私のお気に入りである。この作品は本当にすみずみまで楽しむことができた。今年の下半期において一番濃密な読書体験だったかもしれない。前期も芥川賞候補になっているが、私はこちらの作品のほうが比べようもないほどすばらしく感じられた。これほどの作品でスパッと受賞となるのが望ましいのだが、芥川賞的には物語づくりがうますぎるかもしれない、などという邪推。