象の鼻-麒麟の首筋.com

開設している現在、何を書くか決まっていません。書くべきだとも思いません。こういうインターネット上の場末はどれくらいあるんでしょうか。

雨と反抗期の思い出

普段私が文章を書くのは、平穏な生活が過ぎ去る時の中で自分に芽生えた何かをこの世に残しておきたいと思うときだけである。

しかし今回は何もないところから無理やり文章をひねり出してみた。4000字弱、何の内容もない文章を書くのは何かの訓練にはなったと思う。

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私の芥川賞受賞作品への評価

先の記事で陣野さんの作品を酷評してしまった。好みに合わないとどうしても評価をしにくくなってしまう。芥川賞予想をするとき以外は、よほど心に深く刻まれた作品しか取り上げないので好みでない作品を評価することに慣れていないのだ。陣野さんはお忙しい方だと思うので、エゴサに引っかかってこんなインターネットの場末までお越しにならないことを願う。

さて、そんな私の好みはどんななのかということで、これまでに読んだ芥川賞作品79作を五段階評価で列挙していく。

 

といったしりからなんだが、私の中でレジェンドに君臨する作品があるので、まずそれだけ紹介する。

第143回芥川賞受賞作である赤染晶子さんの「乙女の密告」だ。

 

乙女の密告 (新潮文庫)

乙女の密告 (新潮文庫)

 

 この作品はアンネの日記を暗唱するために特訓に励む女子大生たちが登場するのだが、とにかくキャラクターが立っていて面白い。「芥川賞ってこんなに面白いの!」と捉え方が大きく変わること間違いなし。そしてそのコメディタッチに裏付けて描かれるこの作品の本質を読み解いたとき、この作品の捉え方は大きく変わるだろう。人生の中でこんなに繰り返して読んだ本もない。私の中のレジェンド。

 

いきなりのレジェンドを紹介したところで、ここからはいよいよ評価していく。星の数が多いほど評価が高いと言うことだ。以下、敬称略とする。()内の数字は芥川賞の受賞回を示す。

 

☆×5 傑作、ぜひ読むべき

津村節子「玩具」(53)、池澤夏樹スティル・ライフ」(98)、村田沙耶香コンビニ人間」(155)

 

☆×4 秀作、読んで損はない

尾崎一雄『暢気眼鏡』(5)、三浦哲郎忍ぶ川」(44)、古井由吉「杳子」(64)、新井満「尋ね人の時間」(99)、南木佳士ダイヤモンドダスト」(100)、藤野千夜「夏の約束」(122)、 町田康「きれぎれ」*1(123)、青来有一「聖水」(124)、モブ・ノリオ「介護入門」(131)、絲山秋子沖で待つ」(134)、青山七恵「ひとり日和」(136)、楊逸「時が滲む朝」(139)、又吉直樹「火花」*2(153)

 

☆×3 凡作、読む必要はない

櫻田常久「平賀源内」(12)、 松本清張「或る「小倉日記」伝」(28)、安岡章太郎「悪い仲間」「陰気な愉しみ」(29)、吉行淳之介「驟雨」その他(31)、庄野潤三プールサイド小景」(32)、遠藤周作「白い人」(33)、北杜夫「夜と霧の隅で」(43)、河野多恵子「蟹」(49)、田辺聖子「感傷旅行」(50)、丸谷才一「年の残り」(59)、 庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」(61)、古山高麗雄「プレオ―8の夜明け」(63)、 中上健次「岬」(74)、高橋揆一郎「伸予」(79)、吉行理恵「小さな貴婦人」(85)、高樹のぶ子光抱く友よ」(90)李良枝「由熙(ユヒ)」(100)、小川洋子「妊娠カレンダー」(104)、又吉栄喜「豚の報い」(114)、辻 仁成「海峡の光」(116)、長嶋有「猛スピードで母は」(126)、吉田修一パーク・ライフ」(127)、阿部和重グランド・フィナーレ」(132)、中村文則「土の中の子供」(133)、諏訪哲史「アサッテの人」(137)、津村記久子「ポトスライムの舟」(140)西村賢太苦役列車」(144)、藤野可織「爪と目」(149)、柴崎友香「春の庭」(151)、羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」(153)、本谷由紀子「異類婚姻譚」(154)、石井遊佳百年泥」(158)、若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」(158)

 

☆×2 駄作、読まない方がいい

石原慎太郎太陽の季節」(34)、開高健「裸の王様」(38)、池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ」(77)笠原淳「杢二の世界」(90)、多和田洋子「犬婿入り」(108)、保坂和志「この人の閾」(113)、川上弘美「蛇を踏む」(115)、 花村萬月ゲルマニウムの夜」(119)、藤沢周ブエノスアイレス午前零時」(119)、 松浦寿輝「花腐し」(123)、玄侑宗久「中陰の花」(125)、 大道珠貴「しょっぱいドライブ」(128)、金原ひとみ蛇にピアス」(130)、綿矢りさ蹴りたい背中」(130)、伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」(135)、川上未映子「乳と卵」(138)、磯崎憲一郎「終の住処」(141)、朝吹真理子「きことわ」(144)、田中慎弥「共喰い」(146)、小山田浩子「穴」(150)、小野正嗣「九年前の祈り」(152)、滝口悠生「死んでいない者」(154)、 山下澄人「しんせかい」(156)、沼田真佑「影裏」(157)

 

☆×1 悪文、読んではいけない

村上龍限りなく透明に近いブルー」(75)、笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」(111)、柳美里「家族シネマ」(116)、平野啓一郎日蝕」(120)、円城塔「道化師の蝶」(146)、黒田夏子abさんご」(148)

 

 

こうして列挙してみると私の好みも浮かび上がってくる。軽くて読みやすい作品が好みなのだ。本を読みだしたきっかけが星新一であったことと関係はあるだろうか。

☆3つの可もなく不可もない作品がとても多いことがわかった。哀しいことだ。

私の書評を見るときはこんな感じの好みの人間が書いていることを念頭においていい感じに距離を置いてほしい。あくまで私見なので好みは入ってしまう。

*1:この作品だけで見ると順位が高すぎるかもしれないが、本作が氏の創作活動に占める意味などを鑑みてこの順位にある

*2:「火花」は世間に広く知られていることを踏まえ、教養として読んでも悪くないという意味でこの順位にある

第159回芥川賞② 候補作予想「泥海」陣野俊史(『文藝』夏号)

河出書房が発行する『文藝』は、五代文芸誌の中で唯一の季刊誌である。現在発売中の夏号は、前回紹介した『文學界』5月号に負けず劣らず気合が入っている。(芥川賞に対して)

 

文芸 2018年 05 月号 [雑誌]

文芸 2018年 05 月号 [雑誌]

 

 

文學界』5月号は質を高めた一作「送り火」を送り込んできたのに対し、文芸は数で勝負といったところか。「気鋭中編×4」と号して一気に4篇の中編が掲載されている。今回は陣野俊史さんの「泥海」を取りあげる。原稿用紙換算192枚。芥川賞を狙いに来ているだろう。

私は光の兵士たちの妹。私もまた兵士の一人。――泥濘と腐臭の中を歩き続ける彼らは、いつしか語り始める……「私の話」を……この瞬間、世界で何が起きているのか? 気鋭が挑む、文学の臨界!(文藝の案内|河出書房新社より)

あらすじを書くのは難しいのだが、イスラム教に関する身辺雑記のようなものだった。率直に言って読む価値はなかったと思う。時間を返してほしい。

身辺雑記ならイスラム圏の人が書いたものを読みたい。著者だからこその伝えたい何かがあるのだろうと思って読み取ろうと腐心したがとうとう見つけられなかった。残念だ。

冒頭の日本人はページをめくった瞬間に消え失せイスラム圏の世界に移り変わる。ふたつの世界が交差しながら話が進むのかと思えば最後の章まで日本人は出てこず、出てきても大してかかわりもしない。最後まで読んでもあんまり意味は分からなかったが途中で投げ出していればもっと意味がわからなかっただろう。単にひまつぶしや読む価値のある文章を求めている素朴な読者は間違いなく途中で投げ出すことだろう。

読者の読者としての素養を求めることは悪いことではない。ただ作者が読者に求めるものが大きすぎ、作者としての読者への配慮が感じられない作品は肥大したエゴの塊であり、それはすなわち駄作である。

もう少し話をすると、作中であんまり時間を行ったり来たりするもんだから悪酔いしそうになった。その時間軸の度重なる横断縦断が重層な構造を作りあげているかと言えばまったくそんなことはない。いたずらに酔うばかりで読後感は非常に悪い。

イスラム教界隈の風俗を知るという意味では少し教養になったが、近いモチーフを使った宮内悠介さんの傑作『後は野となれ大和撫子』を読む方が遥かに有用な時間を過ごすことができる。

純文学は読み手に面白がってもらうよりも、何をどう伝えるかに主軸を置いているものだ。その点は理解しているつもりだ。しかしそれは伝わらなければ意味がない。この作品は時間軸がぐちゃぐちゃでそれによって何を語りたかったのか全く見えなかった。

文學界』5月号では文学界新人賞の発表が行われていたが、受賞作はなしとなっていた。選評では多くの評者が、無自覚にただ小説を書いているという指摘をしていた。今作にもその指摘はあてはまるだろう。無自覚に時間軸を行ったり来たりする、無自覚にちまちま「1」や「※」で文章を区切る。もっと丁寧に書いてほしい。

陣野さんは調べてみると文芸評論家のようだ。本当に小説を書きたくて実力で誌面を獲得したのなら全く問題はないのだが、もしかしたらあまり乗り気ではないが無理に頼まれて執筆したのだろうか。

この作品は候補作には入らないだろう。そして入ってくれるな。お願いだから。こういう訳の分からない面白くないだけの読者への配慮のない文章を読ませられるのは苦痛だ。

前回、新庄耕さんのことを取りあげると書いたが、こちらの都合で入れ替わってしまった。もしかしたらもう少し『文藝』特集が続くかもしれないが、いつか必ず新庄さんは取り上げる。

第159回芥川賞① 候補作予想「送り火」高橋弘希(『文學界』五月号)

芥川賞は年に2回発表を行う。今年の7月にある第159回芥川賞選考会では、昨年の12月から今年の5月までに発表された作品が対象となる。候補として発表される作品は5作前後であることが多い。

まだ候補作は正式に発表されていないが(来月発表される作品も対象となるのでまだ候補作を絞ることができない)勝手に予想してみる。

ということで第1回は高橋弘希さんの「送り火」。『文學界』5月号掲載。原稿用紙換算で160枚とのことで、これは完全に芥川賞を取りに来ている。

※誤解のないように触れると、芥川賞は公募ではない。対象期間中に文芸誌等に発表された作品が選考の対象となる。これは兄弟の直木賞も同じだ。さらに言うと、いとこはとこの山本周五郎賞三島由紀夫賞吉川英治文学新人賞野間文芸新人賞も公募ではない。(こんな賞に注目しているのはかなりのオタクだろう)芥川賞はだいたい長くても250枚程度までの作品を対象にするという内規があり、160枚というのは芥川賞のどまんなかをいく長さなのだ。

 

文學界2018年5月号

文學界2018年5月号

 

 

高橋さんは4年前に新潮新人賞でデビューされ、以来3回芥川賞にノミネートされている。あの又吉直樹さんが「火花」で受賞された時も(ひっそり)ノミネートされていたのだ。4年で3回のノミネートだからまあまあのハイペースだ。高橋さんに受賞させたいという引力が働いているのではないかと推測できる。

また今作「送り火」が掲載された雑誌も重要だ。『文學界』は『週刊文春』などで有名な文藝春秋から発行されている。そして芥川賞直木賞を運営する日本文学振興会文藝春秋の社屋内に拠点を構えている。

というわけで芥川賞の受賞作には『文學界』に掲載された作品が比較的多い。『文學界』以外では、五大文芸誌と言われる『新潮』『群像』『文藝』『すばる』(これらと『文學界』を合わせて五大文芸誌)に掲載されたものがほとんどだ。『すばる』からはこれまで3作しか受賞作が出ていなが、それは『すばる』が手を抜いているというよりは、既存の文壇には馴染まない紙面作りであると言うのが正しいだろう。五大文芸誌の新人賞の中では、私はすばる文学賞を推している。新庄耕さんの「狭小邸宅」など純粋に読み物としての価値がとても高かったのでぜひ読んでみてほしい。(ちなみに次回はそんな新庄さんが『群像』五月号に発表した「サーラレーオ」を取り上げるつもりである)また最近は『小説トリッパー』や『たべるのがおそい』などからも候補作が出ているが、受賞には至っていない。近年では単行本書き下ろし作品などは候補に挙げられることはない。(別に単行本はだめとかそういう決まりはない)直近で五大文芸誌以外から受賞したのは、2012年の黒田夏子さんの「abさんご」だ。これは早稲田文学新人賞を受賞し、元東大総長の蓮實重彦さんにも激賞された作品だ。作者が受賞時75歳(もちろん芥川賞の受賞者としては最高齢)だったことなどからメディアにもよく取り上げられていたが、これは読みにくいだけで全く読む価値がない(と私は思った)作品だった。横書き、不自然なかな遣い、いちいち鬱陶しい限りだった。

さて、そんな芥川賞予備知識を備えた私は、読む前から、『文學界』掲載、原稿用紙160枚、候補回数3回、という要素から、すでに本作が候補入りすることは疑う余地がないと考えている。受賞する可能性も高い。

読む前に1000字ほど書いてしまったが、ここからようやく、実際に読んだ感想と受賞予想を行う。

 

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絶え間なく傷つき傷つけられ、それでも生きてゆく ~サラバ! 西加奈子~

2月のはじめにインフルエンザに罹り熱に浮かされながら読み始めたはずなので、読了には都合2か月ちょっとかかったことになる。西加奈子さんの『サラバ!』(小学館文庫)はえげつない小説だった。

 

私は揺れている。生きていくうえで必要な幹を持てていない。ふらふらと揺られながら生きることは不安定で先が見えない。それは一見社会的に安定した地位にあるとかそういうこととは関係ない。

生きるためには揺れない幹が必要だ。絶対に。おそらく多くの人は身体の成長に比例して幹も育ててゆく機会に恵まれる。

私も機会はあったはずだ。しかしあまりに臆病で。逃げる癖が強すぎて。立ち向かう術を何も持たぬまま困難が立ちはだかるばかりで逃亡者のレッテルに身を窶した。

私は”貴子”(姉)が全力で嫌いだった。腹を立てたのではない。嫌いなのだ。怒りは感情の一つで、後ろ向きな意味も前向きな意味も含む。しかし私の”貴子”への感情はひたすらに後ろ向きだった。誰が何と言おうと、私に愛情は伝わっていない。私が現状このようになってしまったのは、えげつないまでに自分勝手で碌に省みることもなく奔放に振舞った”貴子”の所為だ。髄から信じ込んでいた。それは真実ではあった。

しかし世界をそのように捉えることは幹を持たないことの証左だ。他人に己が人生の舵取りを任せている状況ではないか。奴がいたから自分はこんな人生に立っている。

それは肯定的な意味であっても否定的な意味であっても、幹を持たないことにほかならない。己が人生に自分以外の影響主体があってはならないのだ。

もちろん間接的な影響を受け変化をすることは重要だ。しかしその変化はあくまで自分が能動的に生むものだ。他者に依り強制的に行われる変化はもはや屍への一歩だ。生を放棄している。

”貴子”を赦さなければならない。それはただ自分が何も変わらずに”貴子”の改心を待っても仕方ない。いや、作中にもあったが、改心したらそれはそれで赦せないこともあるものだ。

そうではない。”貴子”と自分を区別することだ。それこそ赦すことなのだ。

自分の人生を自分で責任をもって舵を取りながら乗り越えていく。それは”貴子”がいたことを肯定しながら、”貴子”には自分の人生を乗っ取らせないようにしながら生きていくこと。そんな気概がなけりゃ生きていくことはできない。そんな人間はただ屍としてこの世にあるだけだ。

みたいなことをげつんげつん感じさせられて超疲れた。辟易。しかし物語を最後まで読んだとき、別に感動という大仰なものではなく、ほんの少し瞳が潤むのを感じた。傑作。

よりかかってもいいはずなのに ~ねむようこ トラップホール(3)~

ハル子さんこのまま帰ったら人に迷惑かけたーって落ち込むタイプでしょ

だから今の状況が苦しいんだよ

そーいうの”まあいいや”って放り投げずに苦しんでるハル子さんは

ちゃんとしてるよ

大丈夫

【トラップホール(3) P55より】

 

唐突に抜粋してみた。私に刺さったからだ。

上の文章はねむようこさんの「トラップホール」の3巻から抜粋した。

 

トラップホール(3) (FEEL COMICS)

トラップホール(3) (FEEL COMICS)

 

 ねむさんはダメ人間同士がずぶずぶの関係になっていく様を描くと抜群にうまい。

あまりにもダメ人間ばかり出てくるので特殊な状況を描いているかのような錯覚に陥ることもあるが、そんなことはない。

自分一人ではとても立っていられないような状況は誰にでも絶対ある。

一人で立っていられない者同士がよりかかっている世界が、ねむさんの作品には広がっているのだ。

私は一人では立っていられないとき、静かに腰をおろした。次の瞬間にはやにわに横になった。

立つことをやめたのだ。

いちど坐ってしまうと、横になってしまうと、次に立ち上がるのはとてもたいへんだ。

いまもまだ横になったまま動けていない。

 

しかし、ねむさんの作品に登場する人々は、なにがあっても倒れない強さを持っている。

いや強さは持っていない。倒れないためになにかによりかかる図太さを持っているのだ。

私は何にもよりかかることができなかった。世間体、外面を意識してしまって、誰にも知られることなく、静かに立つことをやめてしまった。

もちろん坐ったこと、横になったことで見えた世界もある。

だけどいつまでも坐ったまま横になったままでは生きていけない。

自分の足で立って荒れ狂う波の中を生き抜いていかなければ死んでしまう。

いま私は、死んでもいいと思っている。積極的に死を望んではいないが、生は諦めている。これが坐ったり横になっている状態なのだ。

生き抜く強さはどこにあるのか、いちど立つことをやめた私は再び立つことはできるのか。

父想う子の儚さ Stromae "Papaoutai"

最近、Papaoutaiばかり聴いている。「♪ウッテー パッパウッテー」というキャッチ―なフレーズで脳裡に刻み込まれている方もいるかもしれない。


Stromae - Papaoutai

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