あれだけ怒涛の戦場を潜り抜けて
平穏だけを心の底から希求していたにも拘わらず
ようやく安寧の地を得た途端
すでに退屈と言う贅沢な感情を抱き始めている
現代の特権階級にふさわしいこの感情を抱えて
私はどこに行こう
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平穏だけを心の底から希求していたにも拘わらず
ようやく安寧の地を得た途端
すでに退屈と言う贅沢な感情を抱き始めている
現代の特権階級にふさわしいこの感情を抱えて
私はどこに行こう
続きを読む誰かに否定されることを極度に恐れている
拠って立つ自分がなく否定すなわち破滅となるから
親切心は人一倍でよく気が付くのにそれを行動に移せない
気持ち悪がられるのではと思うと
そこまで見てるなんて気持ち悪いと思われることを考えると
気付いているのに
行動に移せない
親切をせずに退出すると
自分が行動しなかったことで
何か不利益を被っていないか心配になる
害も益もないならそれでいい
何の影響も及ぼさないなら気が楽だ
しかしわかっていたのに防げたはずなのに
気付いていて見逃したことが
何らかの不利益をもたらしていないかと考えると
落ち着かない
怖さに克つのはいつだって勇気
そうだ勇気が足りないのだ
足りないから足そうと思っても
給油口も見当たらないし
補充液も売っていない
一念発起したとて
何をすれば勇気を得られるのか
わからない
無知は罪
無知は罪
罪なのか
すぐ罪だと思うから身動きを取れなくなる
身動きを取れないことを罪の意識の所為にしている
これだけ罪悪感があるから
もう見逃して
今ここから逃げること
今そこから逃げること
解き放たれることだけを考えて生きている
耐えれば嵐は過ぎる
世界中がそう言った
気付けば人に成っていたけど
中身はからっぽのまま
いつまでも満たさない
何も容れない
容器として存続している
苦しい
だから何
苦しい
だから許してほしい
だけど許されたら何になるのか
許しが欲しくて生きているのか
生きていたくなどない
死んではいけないから生きている
おなじ生きているなら面白可笑しい方がよかろう
これは正論
正論とは胸に核に届かない言葉の事を言う
正論が胸に届くとき
人はおおむね正常である
正常な人間などこの世にはいない
もはや正常であること自体が異常なのだ
しかし正常に近い人はいる
彼らは己が正義が世界を成り立たしめんとすることを知っている
正義は吾にあり
行脚行脚正義行脚
ロヒンギャどついて行脚行脚
正義などすべて個人の価値観に過ぎない
なのに常識志向の人々は基準を作らなければ気が済まない
逸脱する何物も許容しない
これこそ罪である
罪とは他人へ危害を加ふるの愚行なり
すなはち凡ての人間は罪を負っている
生まれ来るとき母は腹を痛める
その時点で罪を負っている
罪負い人は己が罪に気付けば煩悶に苦しむ
何人も罪から逃れたいと欲する
これは呼吸をするのと等しく生理的反応である
食欲色欲に勝る本能である
否
呼吸さえ凌駕する強烈な願望である
罪を自覚した時点で人は二手に分かれる
一つは罪を負う苦しみに耐える者
一つは罪を贖う意志を持つ者
畢竟罪は減らないのが世の常
否
罪は殖え続けるのが世の常であるが
贖う意志を持った者は生に前向きになることが多い
否
苦しみに耐えるべく意志を固めた瞬間に生からの逸脱は完了しているのだ
苦しみに耐えるということは
苦しみをすべて己が躰に負うということ
否
凡ての人間は等しく負っているのだが
その事実と常に
常に正面から向かい合い続けるということだ
息が詰まる
息が詰まれば畢竟人は死ぬ
じゃあどうすればいいの
遠い夜のことでも俺は覚えている。まだ肩こりの苦しさなんて知らない、そのくせ同情や憐憫といったむずかしい心の機微は感じ取れる小学五年生のころ、俺は生まれた意味を知り世界を憎んだ。
家を出て三十秒で浜辺に着く。浜辺の奥まったところの潮だまりに、ちっこい魚がたまにいた。ハゼの仲間と思われる。ぴとっと手に吸い付く感触が心地よかった。
まだクーラーはうちにはなくて、といってもたいていの友達のうちにはあったので単に我が家が貧乏だったのだが、羽が三枚しかない扇風機が、我が家の「涼」を担っていた。俺も弟も親父も暑がりで、冷麺を食べていても汗をかいていた。おかんと妹は代謝の良さをひとしきり羨ましがり、あとは無関心だった。夏休みは冷麺そうめんひやうどんざるそば、その繰り返しだった。あの日が冷麺だったことははっきりと覚えている。夏休みが始まって一週間は経とうかという七月の末、すでに絵日記もすべて書き上げ、あとはひたすら自由な一か月を与えられていた俺は、純粋な暇を持て余していた。暇に飽かせて冷麺を啜っていると、対岸で同じく冷麺を啜っていた親父が珍しく口を開いた。
「今年は田舎、帰るか」
田舎といっても親父の方のじーちゃんばーちゃんはもう死んでて、だからここで言う田舎とはおかんの実家を指す。田舎は信じられないくらい山奥にあり、おかんはそこから山を下って海に暮らす親父の下へやってきた。親父が言うにはおかんは山の中でイノシシと一緒に駆け廻っていたらしい。俺は田舎へ行くと聞いてまず、自分がイノシシと野山を駆け巡る様子を想像した。あまり楽しそうではなかった。
俺が小さい頃は毎年田舎に帰っていた。行かなくなったのは親父がいっとき心を病んでしまって家を出られなくなったからだという。おかんは必死に親父を支え、今では精神なんてないのではないかと思われる傲岸な男になってしまった。じーちゃんとばーちゃんは永らく会っていないが、毎年の誕生日とクリスマスとお正月に、それぞれ現金を郵便で贈ってくれていたので名前を憶えている。洋二とハツ子だ。名前を知っていたって呼ぶことはない。二人は俺にとってはじーちゃんとばーちゃんであって、洋二とハツ子ではない。
俺は小さかったのでほとんど記憶がないが、田舎には小さなおまつりがある。町の人が顔を合わせてあーだこーだ喋りあう場、出店は数えるほどしか出ておらずひっそりしている。
「近所の盆踊りも最近はやらなくなっちゃったし楽しみだねえ」
母と妹は頻りに楽しみにしている。俺はまだ見ぬおまつりに胸をときめかす、というよりも、ことばにならない気持ちがふつふつと沸いているのを感じる。心の奥の方がキュッと窄んでしまったようで。
お祭り騒ぎが去ったあとの風景には限りない哀愁がある。鳴り止んだ太鼓、屋根を下した屋台、漂う火薬のにおい。ほんの半時間前までは太鼓は打ち鳴らされ、的屋は盛況で、数えきれないほど花火が打ち上げられていた。去ってしまえば先ほどまでのフィーバーは幻だったのかと疑いたくなる。フィーバーの最中は別に楽しくない。しかし非日常の高揚感に漂う気持ちは嘘ではない。ただふわふわと、いつもと違う空気に呑まれ揉まれるだけ。いけないクスリのようだ。フィーバーが去った後は大きな喪失感を味わう。できることならもう一度あの非日常を取り戻したいと考える。しかし幻は溶けてしまうから幻なのであり、夢は醒めてしまうから夢なのだ。あの高揚感は、次の夏までお預けだ。
フィーバーは必ず去り行く。そしてその去り際はとても切ない。
それは「発熱」(フィーバー)の場合も同じである。
このところ久しぶりに本格的に体調を崩していた。インフルエンザと診断されてもいつものように、だからなんだと笑うこともできなかった。熱にうるんだ瞳で医者の顔を眺めながら謎の薬を吸引した。丸一日もあれば発熱は収まるだろうという見立ては外れ、都合三日もかかってしまった。幸い実家住まいだったので用事は家族に頼むことができた。それでも臥せても坐っても、もちろん立っても、脳は朦朧とし視界はいつもの三割程度暗く、掠れた声で常に唸っていた。いやうなされていた。うーんうーんとうなされるというのは物語ならではの戯画ではなく本当にあることだ。より正確言うと「hm...」と短い吐息に思わず色がついてしまうような具合。目が熱すぎて閉じていられない日々は三日で終わった。その晩は寝つきが悪く、結局夜中に大量の寝汗をかいて着替えてからは寒気でよく眠れなかった。それでも夜は明ける。依然として不快な寒気はあったものの、昨夜までと比べると完全に頭が軽い。体温を測ると37.7℃であった。昨夜までと比べると極めて平常時に近い状態であり、起き上がり本を読むなど活動を始めた。しかし私は、インフルエンザに感けて誰に連絡もせず所属していたゼミでの活動も一切放置していた。倒れて丸三日、私の作業は滞り全方面に大迷惑をかけていた。こうなってしまっては事態の収拾に多大な労力を要する。それならもう少し熱のまどろみの中にいたい。昨夜までと比較して健康だと言ってもまだ軽い寒気や頭痛は残るし食欲は不振だ。もう一度布団にもぐってしまおうかと囁く自分がいる。煩悶を繰り返し、思いついたように体温を測ってみれば38.1℃と表示された。気持ちの上で38℃台に乗ると立派な病人だと感じる。これは今日も寝てしまった方がいいのではないかと気持ちが偏る。
発熱状態のとき、何もしなくてよいという免罪符を手に入れた気になる。元来何もしたくない性分のため、これは非常にありがたい。もちろん発熱すれば体力的にかなりしんどく、寒気や発汗など不快なことも多いのだが、それ以上に社会的に何もしなくてよいと認められた存在になることは居心地が良い。赤ちゃんになりたい、と言う人がいるが、この望みは非現実的でかなわないと認識しながら言っていると思われる。ある種のギャグだろう。しかし発熱に対して抱く歓びは完全に現実の世界のものであり、それでいて赤ちゃんになりたいという欲望と同程度、幼稚だ。赤ちゃん返りはせいぜい未就学児までに経験しておくことが望ましいなか、成人した人間が赤ちゃん返りに等しい、しかも現実に実現可能な欲望を抱くというのは、あまりにも自己中心的である。
それにしても責任を負わなくてよかったころに戻りたい。なぜ私は責任を取ることができないのだろう。母と一緒に近所のショッピングモールに行った日に戻りたい。あのころは弟もまだ小さくかわいかった。まだ歯も生えていない弟と母と私と3人で撮ったプリクラはどこにいってしまったのだろう。あのころはきちんと甘えるべき立場にいた。しかし私は甘えることが下手だった。お祭りに連れて行ってもらっても何もねだらないような子供だった。何も欲しがらないことがいい子なのだと思っていた。すでに一身に両親やその他の人々の愛を十分以上に感じていたにもかかわらず、さらにいい子扱いをされたかったのだろうか。
子どもの仕事は学校で勉強すること、と言われた記憶がある。おそらく何かしらのメディアからの影響だろう。しかしこれは間違いではないかと思う。私は子どもの仕事は人に好かれることであると思う。己の力で他人からの行為を勝ち取る、という経験は子どものころに癖づけておくと、生きる上でかなり大きな推進力になろう。反対に愛されたいと思って愛されることができなければ必ず鬱屈が蓄積する。
フィーバーが冷めるときに、私は寂しいと感じる。道具としてフィーバーがないと熱に触れられないからだ。
びじゅチューンの動画がyoutubeのNHK公式チャンネルで配信されているのを昨日知った。さっそく私の一番好きな「睡蓮ノート」を無限ループする。
往年の人気キャラが登場する本作は、これまでの他の作品を観ているかどうかで評価が分かれるだろう。いや観ていなくても十二分に名作だが。
同じ作者の懐かしいキャラクターを登場されると私の涙腺は緩む。「変わらないものを約束して 睡蓮ノートに記した」この部分で必ず泣く。悲しいことなんて何もない。ただ青春という限られた時間を描き出されただけで見事に切なく尊く心を刺激される。この作品に出ている彼女たちは卒業してもずっとなかよしなんだろうなあと思わせてくれる。
同じように懐かしキャラクター総出演する作品といえば、重松清さんの『ゼツメツ少年』が挙げられる。自分の作品世界を愛しているからこんな風にまた活躍する機会を与えたくなるのだろうか。