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文学者になりきれず周縁部でおまつりさわぎをするの巻

第159回芥川賞⑭ 受賞作予想「風下の朱」古谷田奈月(『早稲田文学』2018年初夏号)

 五代文芸誌にばかり目を取られていた私を嘲笑うように飛び出てきた候補作。ここ最近の傾向から考えれば当然あり得る線だったのだ。早稲田文学小説トリッパーは見ていたのだが、分量的に芥川賞の範疇だった高山羽根子さんの掲載作はあまりピンとこなかったので流してしまった。早稲田文学はノーマークだった。。。

早稲田文学2018年初夏号 (単行本)

早稲田文学2018年初夏号 (単行本)

 

キリンジの3みたいな表紙だな)

 

話の筋書きとしては、「健康」を理由に、大学の名ばかり野球部に熱烈勧誘された梓が先輩に感化されながら、強いメンバーを頭数揃えて正式に部を立ち上げることを目指すというもの。

この作品は私の中で高橋さんの「送り火」をひとまたぎして圧倒的に本命となった。一番大きな理由は、題名が効果的であることである。仄めかしたようなよくわからない題名ではなく、作品の根幹にかかわる部分を端的に言い表しており、読後題名を眺めて余韻に浸ることができる。題名として100点である。

「風下の朱」に完全に惚れたので、つい先日三島賞を取った話題作「無限の玄」も読んだ。「無限の玄」と「風下の朱」は、題名でも意識されているが、対を成す作品である。「無限の玄」は徹底して男性しか登場しないのに対し、「風下の朱」では女子大生の世界が描かれる。

「無限の玄」はブルーグラスバンド「百弦」を組んで全国を渡り歩く家族の物語なのだが、家に帰ると一家の父が死んでいたところから物語ははじまる。しかし夜明けにはどこからか復活し一日を共にする。晩になればまた死ぬ。この繰り返しの中で家族の人間関係が次々と明らかになってゆく。先から「家族」と述べたが構成員は父、兄、私、叔父、従弟の5人なのだ。全員男。作者の古谷田さんは自分は作中では女性より男性を描く方が自然だと言い、女性を異性として捉えていると言う。「女性号」であるにもかかわらず男性を描くというのがおもしろい。読み物としては方々で言われているとおり、解釈を読者にゆだねるおおらかな書き方がされており、再読すれば新たな発見が出来そうな奥行きは感じた。ただ同時に、作者は物語を投げ出してしまっているのではないか、という危惧も抱いた。

そんな近作「無限の玄」と比して、いや比べる必要もないほど、「風下の朱」は完成度が高かった。むしろこちらの作品の方がジェンダー観が強く意識せられた。

野球部の部長、侑希美さんは「野球選手」になりたいと願っている。「野球選手」と一緒に野球で勝ちたいと思っている。「野球選手」とは侑希美さんにとって性を超越した存在である。「野球選手」としての第一の素質は「健康」であり、同じ大学に通う女子学生のほとんどに、彼女は「瘴気」を感じるである。

(次行ネタバレあり)

 

 

 

 

ネタばれになるが「瘴気」とは「生理」のことである。

 

「...(前略)女の体にはもともと病が眠っているものだけど、自分を律することさえできればいつまでも眠らせておくことができる...(中略)自分という個を蔑ろにしたとき、女の病は目覚めるのよ。誰かを理解し、理解されることで生きたいと願ったときに。それがたとえほんの一瞬の願いでも、体は決してごまかせない。自分を捨て、他者を受け入れる準備を始める。ただの器になる準備を...(後略)

(『早稲田文学 2018初夏号』P17)

 侑希美さんはかなり過激な考えを持っている。だが、かつての仲間杏菜さんと潤子さんが、「瘴気」に満ちたソフトボール部の女子学生を大量に引き抜いてきたことで、侑希美さんの頑迷かつ固陋なこだわりは崩れ去る。「梓、もう練習に来なくていいわ」あれだけ熱烈に勧誘してきた侑希美さんが梓を手放そうとしている。侑希美さんにも生理がきたのだ。侑希美さんはソフト部の面々を追い出した日、梓のことを理解し、理解されたいと願ってしまったのだ。その瞬間、野球選手ワナビーだった侑希美さんは一気に女になってしまった。

 

侑希美さんは性を否定しようとした。しかし結局己の性から逃れきれず自縄に縛られることとなった。性という天賦のものと向き合うことは生きていくうえで避けられないだろう。

モチーフの操り方がうまく伏線回収も行われ、ただひたすら作品を読む楽しさがあった。これは大前提として、その先に侑希美さんの性との向き合い方に哲学を見出し、離れていく周りの人びとに共感した。非常に質の高い読書体験であった。芥川賞大大大本命。