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文学者になりきれず周縁部でおまつりさわぎをするの巻

第159回芥川賞④ 候補作予想「しき」町屋良平、「リーダー」松井周(『文藝』夏号)

今回は一気に二作読んだので、紹介も同時に行う。

 

文芸 2018年 05 月号 [雑誌]

文芸 2018年 05 月号 [雑誌]

 

 

 

町屋良平さんは先の芥川賞を受賞して話題になった若竹千佐子さんのひとつ前の文藝賞受賞者である。文藝賞は河出書房発行の文芸誌『文藝』主催の新人賞だ。

今回取り上げる「しき」は思春期、反抗期、未だ大人に成らざる者、を描くジュブナイル小説だ。

 

言いたいこと言えないこと

言うべきこと言うべきでないこと

言うべきとき言うべきでないとき

言うべき相手言うべきでない相手

 

少年はコミュニケーションの難しさを、痛みを通して知ってゆく。

 

「やめろ!」

かれは、もっていたビールの缶の中身を、瓦の友だちにぶっかけた。友だちの顔は濡れて、シュワシュワと泡がはじける。友だちの若い肌の脂に混ざりあわずに液体は、黄金色の内側から、しろい泡が、ブクブク、シュワシュワ、はじける。友だちの髪が濡れる。

「おいー......」

友だちは髪をさわる。顔を撫でる。手の甲にシュワシュワがうつる。

「なにすんだよ!」

友だちはかれに飛びかかる。

かれは殴れない。殴り慣れてない。衝動が昂っても、すぐ暴力に繋がらない。

「これは暴力におきかえてかんがえると――」

の手つづきをいちいち踏んでしまう。それでは殴れない。(『文藝』夏号 P96)

人称が安定しない。語り口もころころ変わる。場面がつかめなくなることがしばしばあったが、後半は筆致が安定していた。終わり方もさわやかですっきりしているし前半のごちゃついた部分をリライトすればなかなか傑作になる可能性はある。

芥川賞としては、分量は216枚ということで申し分ないが、文章があまりうまくないのと話があまりにも軽すぎるので、候補入りは難しいかもしれない。候補入りしても受賞する可能性は低いだろう。個人的には嫌いではなかった。次作に期待。

 

そして松井周さんの「リーダー」であるが、こちらは今年最も私が衝撃を受けた作品だ。私の生活を観察して書かれたのではないかと思うほど自分にあてはまった。

ゲーム開発のプロジェクトリーダーを務める主人公が、そして家庭では父である主人公が、大人としての責任に追いつめられてゆく物語。

以下、たくさん引用してみる。ちょっと紹介しすぎて怒られるかもしれないが、この作品を読む間に私が受けたパンチをもう一度振り返ってみたいのだ。

 

妻からよく「普通そうでしょう」と言われるのだが、「普通ってなに」と返すと口げんかの時間が倍になる。

「あなたのその『普通ってなに?』と『そもそもね』っていうのは二大意味なしワードだからね!売られたケンカは買ってよ、ちゃんと!こっちもそうしてるんだから。勝手に土俵から降りようとしないで。『そもそもルールがおかしい』とか言われたってわかんないわよ。ルール無用でやってんだから!」

要約するとこんなことを言われる。こんなときは、なにかまずいぞ!と思って慌ててあやまったりするのだが、「本当に悪いと思ってないならあやまらないで」と突き放される。本当に悪いと思ってない。その通りだった。(同 P148-149)

厳しく糾弾してくるのは妻。糾弾されているのが主人公。はじめこの場面を読んだときはヒステリックでおっかない奥さんだなと思った。このような場面は自分の身にも覚えがあった。

ここで主人公は土俵を降りる、勝負をしないことに対して否定的な気持ちを全く持っていない。純粋な気持ちで意味がわかっていないのだ。普通や常識を引き合いに出して相手が戦ってくるのだが、社会から少し外れた感性を持っている人間はその常識をまず疑ってかかってしまう。常識に塗り固められた人々はそのような態度を不誠実だと受け止める。一生懸命に抗議しているのにはぐらかされていると解釈する。

そんな悪意はみじんもないのだ。純粋にわからなくて、本当にそんなものが存在するとは思えなくて尋ねているだけなのだ。

結果として相手が怒るのでわからないながらも謝る。そしたら「悪いと思っていないならあやまるな」とくる。そりゃ悪いと思わないよ。だってわからないんだから。

もしもこの「わかっていない」という状態を「恥ずかしい」「悪いことだ」と捉える心があれば前向きに解決を図ることができるだろう。なぜなら常識外れを恥じることが常識への第一歩だからだ。しかし本当に常識はずれな人間は常識を外れていることを恥じない。当たり前だ。基準となる常識を認識できていないのだからそこから外れて何のダメージがあろう。

常識に外れている点で、私は主人公と同じ側に立つ人間だ。そしてその点においては主人公を擁護する構えもある。

しかしその後の主人公は、育児に対しても仕事に対してもあまりにも消極的な態度をとってしまう。常識を背景に立てて怒りエネルギーを振り回す人間から距離を置くことは、すなわち人間社会からの脱落を意味するのだ。

傷つきやすい人間は社会でやっていくことが難しいという、わりによく知られたステレオタイプの真髄はこのあたりにある。

もういっちょ、妻からのボディブローを受けてみよ。

以下の引用は、級友を殴った息子の件で妻から対応よろしくと頼まれていたが、息子にはぐらかされ謝罪を遂行できなかったことを受けての夫婦の会話である。

ドアの向こうに妻が立っていた。

「びっくりした」

思わず声が出てしまった。妻がじっとこちらを見てるので

「なに?」と聞くと、「父親としてまずいんじゃない?」と言う。

彼女は腕を組んでこの話が長くなりそうな気配を見せる。

「今、タカシから聞いたけど、謝罪してないんだって?」

「ああ、まあ......一度お前が帰ってくるのを待ってから相談しようかと」

「遅い!それじゃ遅いって!ねえ、子供が暴力をふるったら親は子供を叱る。相手にあやまる。子供にあやまらせる。反省させる。常識でしょう?」

「だからそれを一回話し合って、」

「それじゃ遅いんだって!」

「タカシは悪くないって言いはるから」

「もう!子どもはそう言うでしょう。なに?それ鵜呑みにしたの?」

「だから相談しようと思ってさ」

「部屋に引っ込んでんじゃない」

「違うよ。これはその、仕事が......」

「知らないわよ。こっちも仕事してたわよ。それで帰ってきて、頼んだことがほったらかしで、なんの解決もしてないことにめまいがしたわよ。子どもなの?うちには子どもが二人いるの?その面倒をこっちがいちいち見なくちゃならないの?」

「いや、だから、行くよ!明日!謝罪に!」

「どこに?」

「その子の家に」

「だって知らないでしょう?連絡先も住所も」

「先生に連絡するから」

「先生の連絡先知らないでしょう?」

「だからそれをお前に相談しようって」

「してないじゃない!結局なにも考えてないし、なにもできないわけでしょう?もういいよ!全部私がやるしかないってことだよね!」(同 P153)

一つ言うと、「子供」「子ども」の表記は統一してほしいところだが。それはさておき。

私にもきっと言い分はあるのだ。子どものたわいない詭弁であっても、無下に押し殺すことができないのだ。それは頭の片隅に、ステレオタイプな「不良の親」像があって、彼らが子どもの言うことを片端から圧殺しているからかもしれない。それは理由のひとつではあるが、本当はそれだけが理由ではない。

何よりその瞬間の対応力がないのだ。常識という行動基準があれば、半ば自動的にすべき行動がはじき出されるのだろうが、常識が欠けている場合、一度持ち帰って慎重に検討しないとわからないのだ。そのようにちんたらしていること自体常識のある人には耐えられないことだし、不誠実だと思われる。

持ち帰って真摯に検討すればまだましだが、常識なんて一朝一夕に身につくわけじゃない、持ち帰ったところでどうしていいかはわからず誰かに相談したくても、この小説で言えば妻、身近な常識人は話し相手になってくれないのだ。そうしたら考えがまとまるわけもなく、結果、やる気がないとみなされてしまう。

結果が出せないと大人としては失格なのだ。たとえ責任を全うできないからと言って死を択んでも、責任自体はなくならない。現実社会の手の届かない存在には成るが、結局大人としては失格のままということになる。

大人としてはどこかで腹を決めてすべてを引き受ける度量が見せられなければならないのだろう。それには常識を身に着けていることが不可欠だ。

今度はもっと大きな声で言う。

「子どもじゃん」

「そうだよ。なにが悪い」

突然、妻が顔を覆った。しばらく、荒く呼吸している。

「なに?」と聞いても答えないので、近づくと席を立ってソファに寝そべる。そっちは暗がりでよく見えない。

「もういいから。仕事しなよ。もう本当ムリ」

「なにが?」

「いいって」

「よくないよ」

「ほっとけよ」

「そんな」

「ずるいよ」

妻がしゃくりあげるように泣き出す。

「ずるいよ!こっちだって子どもになりたいときもあるのにさあ、そっちは押し付けてばっかじゃん。子どもにならせてくれないじゃん!」

「なればいいよ」

「いつなるんだよ?タカシがいるときはムリだし、三人でいるときだってムリだし、会社にいるときだって!」

「......」

「は?なればいいよ?えらそうに。そういう時間をつくれよ!そういう場所を!なんなんだよ、おめえはよお!」

まずい。怒りに火が点いてしまった。

「ごめん。今のは違う。なればいいよ、じゃない。全部こっち。こっちのせい。こっちが全部悪い」

「全部とか言うんじゃねえよ!そういうのやめて!変える気ないくせに口先だけで言わないでよ。本当に子どもっぽいよ!」(同 P165)

この場面での主人公は完全に事なかれ主義が先行して思想のかけらもないその場限りの取り繕いをしようとしている。これは妻に対して不誠実だ。

この夫婦の問題は、常識人と非常識人、それぞれがそれぞれの殻に閉じこもってしまっていて全く意思疎通が成り立っていない点にある。常識ある人が常識の欠けた人に歩み寄るか、常識の欠けた人が常識を知るか、どちらかがなされない限りこの二人は永遠に平行線をたどるだろう。

常識は多くの人が身に着けている教養を指して言う。つまり多くの人は常識を身に着けている。彼らからすると、常識を身に着けていない人間が悪い、ということになる。傲慢だ。

別に常識のある人が常識の欠けた人に寄り添ってあげてもいいではないか。この妻が主人公の行動原理に少しでも目を向ければ、関係は改善する。間違いなく。

常識人の傲慢なところは、自分は常識を身に着けているから正しいと思っているところ、にある。別に常識なんて正しくもなんともない。各個人が何を受け容れるかは本質的に自由だ。多数の人間の存在を前提とした社会などという歪な存在の所為で常識が異様に力を持ってしまっている状態の方が異常だ。気持ち悪い。

常識のあるなしに拘わらず、今対面している相手に対して最大限の配慮をすること、相手が今何を思って発言、行動しているのかを精一杯想像することが必要だろう。まあこれこそ常識ということになるんだろうが。つまりこの妻もまた非常識だ。夫婦ともに最低のモラルしか持っていない。子どもっぽいというステレオタイプに当てはまるのは主人公の方だが、本質的には夫婦ともに最低のモラルしか持っていない。

 

今回取り上げた二作はどこか似たところがあった。まだ大人になりきれていない人間の苦しみ。これは人類に普遍のテーマだろう。とくに「リーダー」はモラトリアムを抜けなきゃいけないのに抜け切れていない(と感じている)ような人は必読だと思う。人生のバイブルとなってしかるべき強烈なパワーを持った作品だ。

やさしさと甲斐性のなさを混同している人は自分の身に当てはまることの多さに驚くだろう。

 

芥川賞予想という名目ではじまったのに熱くなってしまった。これほど思い入れている作品を客観的に捉えることは不可能だ。ただ、芥川賞直木賞がこの作品を取りあげるなら私はその態度に敬意を表する。