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文学者になりきれず周縁部でおまつりさわぎをするの巻

月光浴

 風の匂いが変わった。春がやってきた。

 散歩をしているといろいろなことに気付く。踏みしめる草も先週よりずいぶんみずみずしくなった。

 春の夜は一人で過ごすに限る。この時期だけは人恋しくならない。世界中が母親の胎内のように、なまあたたかく、やさしいから。

 池のぐるりを歩く。池の中へと少し飛び出すかたちで休憩所が設えてある。ベンチに腰掛け月明かりを浴びる。手相くらいは見える明るさ。

 

 旅に出るか否か。考えても答えは出ない。この世界に長くいすぎた。あんまり居心地がよくってさ。本当はもっと早く旅立つはずだったのに、いつの間にか季節が過ぎて。

 

まだ物足りない。今日は近くの大学の構内まで足を伸ばしてみよう。馬術部の厩舎の匂い。湿った土の匂い。月影から立ち上る匂い。この世界が好きだ。

 

ここに散歩に来たのはずいぶん久しぶりだ。前に来たときは母に手を引かれていた。日差しがまぶしくて目を開けているのが辛くて。だから景色よりも匂いの方が強く記憶に残っている。草が日差しを反射する匂い。

 

 あの日から何度絶望しただろう。望みが絶えた先に生きる目的なんてあるはずもなくて。それでも生きねば。生まれて来た意味を見つけるまでは。

 母に、生まれて来た意味を伝えるまでは。

 

 母にはいつも不安、心配をかけてきた。安心してもらいたい。あなたの子はこのために生まれてきたんだよって。この世界で生きていけるんだよって。

 生まれて来た意味を探してもがいた。自分がこの世界にできること、遺せるもの。何から何まで手をつけて、何から何まで失敗した。何もできることなんてないのかもしれない。何も遺せるものなんてないのかもしれない。

 本当は生まれて来た意味なんてないのかもしれない。

 やがて疑惑は確信に変わる。できることはない。遺せるものもない。生まれて来た意味はなかった。

 母は死ぬまで心配をし続けるのか。そのことを考えると悲しくて胸が苦しい。

 

私はまだ考えている。しかし世界に怯える私は、まだ答えには程遠い。