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第164回芥川賞③ 受賞作予想「母影」尾崎世界観(『新潮』12月号)

芥川賞の候補作もキリキリ読んでいきたい。この半年の不精が祟り、候補作のうち読み終わったのはようやくこれで2作目だ。図書館でもすでに「すばる」と「群像」は貸し出しされていてなかなか戻ってこない。

新潮 2020年 12 月号

新潮 2020年 12 月号

  • 発売日: 2020/11/07
  • メディア: 雑誌
そんななか、話題性の一番高い本誌がスムーズに手元に準備できたのは幸運だった。

  • 大枠について

小学生の女の子が視点人物。貧乏な母子家庭で育つ「私」は、お母さんの仕事場であるマッサージ店に学校帰りによく足を運んでいる。壊れた大人が母に直してもらいにやってくる。やってくるお客さんは大体知らないおじさんだ。カーテンを隔てた隣のベッドでお母さんは知らないおじさんを直していく。大体こんなふうに物語世界は立ち上がる。
子どもの語りで無理なく、母の仕事が性に絡んでいることが明らかにされてゆく。「私」は学校の同級生から「あの子のお母さん、変タイマッサージなんだって」といじめられている。いじめてきた同級生の中には、以前一緒に遊んだことのある友達も混じっていた。しかし「私」はあまりショックを受けていないように思われる。「変タイマッサージ」の「タイ」を字で書けないが読める、だから母親がお店でしていることも書けないけど読める、と自己認識して、次のシーンではハムスターの心配をしている。「私」の人物像は、現実から遊離した捉えどころのないものとして描かれている。ここで言う「書けないけど読める」とは、母の性的サービスが具体的にどういうものかはわからないが、世間的には後ろ指を差されてしまうものだということは理解している、ということだろうか。

  • リアルなのかそうでないのかわからない子どもたち

ちなみに「変タイマッサージ」と言っていじめてくるシーンでは、「お金持ちの女子」とその取り巻きが加害者なのだが、

「あの子のお母さん、変タイマッサージなんだって」
(中略)
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
「変タイマッサージ」
(『新潮』12月号 P137)

と取り巻きは付和雷同に復唱しているだけだ。しかしのちの授業参観のシーンでは、

(注:国語の授業で登場人物が泣いた理由を答えさせている)
それから何人かが順番に答えていって、先生がじゃあ次で最後と言ったら、お金持ちの女子がまっすぐ手をあげた。それを見た先生は、せっかくだからいつものなかよしグループみんなで答えてもらおうと言った。立ち上がった六人はそれぞれみんな目を合わせてから、何かをたしかめるように合図を送ったりした。六人の中でお金持ちの女子だけはお父さんが来てなかったけど、それでもお金持ちの女子のお母さんは首や耳がキラキラしてて、じゅうぶん目立ってた。
「泣いたのは、みんなのことがとってもだいすきだからです」
お金持ちの女子が答えて、後ろにいるお母さんと目を合わせて笑った。それから他の女子たちにまた合図を出して、自分の席にすわった。
「泣いたのは、自分がまちがってることに気づいたからです」
「泣いたのは、イヤなことをイヤってはっきり言えなかったからです」
「泣いたのは、そんな自分がなさけなくてゆるせなかったからです」
「泣いたのは、いつもまわりに合わせてばかりの自分を変えたかったからです」
「泣いたのは、今、変わりたい自分をこの先もずっとわすれないためです」
他の女子たちが言い終わると、しずまりかえってた教室の後ろからはく手が起こった。先生もおどろいた顔で手をたたいている。他の女子たちはおたがいの顔を見ながら笑い合っていて、なかまはずれになったお金持ちの女子だけが下を向いてた。そのあともしばらく、教室のざわざわは消えなかった。
(『新潮』12月号 P154−155)

と取り巻きが突如自我を持ち始めて叛逆する。この後、ペアで取り組む宿題が課され、「私」は「お金持ちの女子」が気になって様子を見にいく。

自分の席でずっと下を向いてるお金持ちの女子をみつけたとき、私はセミを思い出した。木に止まったセミを発見したときと同じ、あのワクワクした気持ちになったからだ。一人ぼっちでイスにすわってるお金持ちの女子は、木に止まってじっとしてるセミだった。でも、セミがちゃんと木になじんでるのとくらべたら、人間の形をしたお金持ちの女子がしっかり机にうき出てるのがおかしかった。みんなで集まってるときはあんなにうるさいのに、一人になったときはこんなにしずかだ。あんなに元気がないお金持ちの女子なら、私とでも友達になりたいんじゃないかと思って、何か話しかけてみたくなった。
でもよく考えたら、私はただセミをみつけたラッキーがうれしいだけで、べつにセミがほしいわけじゃなかった。
(『新潮』12月号 P155)

ここの「私」の意地悪加減はゾクゾクするほど面白い。このあと結局「お金持ちの女子」と「取り巻き」は何事もなかったかのように仲直りするのだが、もはや「取り巻き」は「取り巻き」ではなく意思を持った人間として現れている。
一連の流れが一読者として私はとても好きなのだが、本当にこれは子どもなのか?と訝しんでしまった。今まで主体性なく取り巻きのように振る舞っていた子どもが授業参観の場で突如自分の意見を発表するだろうか。「取り巻き」同士で「お金持ちの女子」を“ハブ”にしよう、と談合がまとまり反旗を翻したのならわかりやすいが、結局すぐに仲直りしている。この場面はものすごく面白かったが、作品全体の完成度という視点で見ると引っかかった。

  • 小説としての試み

この作品は子どもの感性を通してセックスワーカーの世間での扱われ方や母子家庭の貧困など社会問題をあらわにさせている。ただ、私はどうしてもそこにこの作品の本質があるとは思えない。問題を孕んだ家庭環境に材を取っているが、この作品は「私」という少女をひたすらリアルに描こうとした作品なのではないかと読んだ。地の文では作為的にひらがなや誤字が多用され、小学生らしい言葉遣いにされている。しかし感覚を言語化する能力は大人のそれであり、違和感がある。この違和感を作品の欠点と捉える人もいるかもしれないが、私はそこにこの作品の本質を見た。大人の力で、子どもの混沌とした思考や感覚を細かに表すとこういうふうになるのではないか。これまでにも子どもの残酷な混沌とした部分をリアルに表現してきた作品はあった。その混沌に大人がより細かに形を与えるとどうなるのか。そのような試みとしてこの作品は書かれたのではないかと感じている。
『群像』2021年1月号の小説合評でも本作は取り上げられており、そこでは反対に作者の書きたい絵のために登場人物たちが駒にされている、との指摘がなされていた。やはり語り口の巧みさと物語展開の澱みなさが、作者の作為性を浮き彫りにしているのだろう。そこがどう捉えられるかによってこの作品の評価は大きく変わる。おそらく芥川賞では瑕疵と捉えられ点数は低くなるだろう。単行本化して来期の野間文芸新人賞を受賞するのが自然な流れではないだろうか。掲載誌が『新潮』なので三島由紀夫賞が先かもしれない。