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第40回野間文芸新人賞② 受賞作予想『本物の読書家』乗代雄介(講談社)、受賞作予想まとめ

 筒井康隆氏の『文学部唯野教授』のように、作中で講義が始まる作品はいくつか知っている。小説を読んだ結果として賢くなることができる。しかし私は別に本を読んで賢くなりたいわけではない。そんな私でも乗代さんの『本物の読書家』は楽しめた。

本物の読書家

本物の読書家

 

 表題作「本物の読書家」はそれぞれ独特の読書遍歴を持つ「わたし」と「大叔父」とたまたま列車で乗り合わせた「男」の3人の会話で進んでゆく。読書家という肩書きが存在するのかはわからないが、そのような自意識は存在するだろう。読書を趣味に持つ人間の自我を刺激してくる。

 そして併録の「未熟な同感者」である。大学のゼミを舞台に醜い愛憎劇(そこまで激しくない)が繰り広げられる。そして全体のバックボーンとして文学論が下敷きにある。論と物語との連関を見出すも見出さないも読者の自由だ。私は部分的に読み飛ばしながらも論調を含めてこの作品を楽しんだ。ストイックとも言うべき偏執的な読書への向き合い方が窮屈だと思い知らされた。

  さて以上で第40回野間文芸新人賞の候補作はすべて読み了えた。これを踏まえて勝手に受賞予想、というか受賞願望を書いてみる。

 

 予想受賞作は

双子は驢馬に跨がって』金子薫(河出書房新社

双子は驢馬に跨がって

双子は驢馬に跨がって

 

 『無限の玄/風下の朱』古谷田奈月(筑摩書房

無限の玄/風下の朱 (単行本)

無限の玄/風下の朱 (単行本)

 

の2作と予想する。

 講談社が主催しておきながら2作受賞で2作とも講談社ではないというのは考えにくいかと思ったが、第18回、第26回、第34回と2作受賞であるが講談社は受賞しなかったケースもある。簡単に講評を記す。

 

双子は驢馬に跨がって

双子は驢馬に跨がって

 

  金子さんの『双子は驢馬に跨がって』は本当に面白い寓話だと思った。思わせぶりに過ぎて何が言いたいのかわからないようなところもあって、すとんとは胸に落ちてこない。2作の中でも野間新ぽさも込みでこちらが受賞にはより手堅いと考える。

 

雪子さんの足音

雪子さんの足音

 

  木村さんの『雪子さんの足音』は読んだときには「読みやすい」という点で好感を持っていた。雪子さんの気持ち悪さと主人公の男の都合のよさに身悶えたりして読書体験としては楽しかった。しかし時間を置いて、あとに何も残らない読書体験だったという感想を持つに至った。軽いというのは持ち味だが軽すぎては心許ない。

 

無限の玄/風下の朱 (単行本)

無限の玄/風下の朱 (単行本)

 

  古谷田さんの『無限の玄/風下の朱』だが、私は特に「風下の朱」を強く推す。「無限の玄」は男性だけ、「風下の朱」は女性だけが登場し、題名も相俟って対になる作品であることを示しているように感じられる。しかし「無限の玄」はそこまで素晴らしい作品だとは思えない。ほんのひきだしに寄せた文章で作者自身が語っているが、「無限の玄」は女性というものを見つめるために男性を描いているのだ。その結果として「風下の朱」が生まれた。「無限の玄」がどこか軽いのに対して、「風下の朱」は文章は軽口であっても非常に重いものを持っている。ずしんとくる「女性」の重さ。前作『リリース』はもうひとつ重かった。いまのところ古谷田さんの作品はこの3作しか読んでいないが、私が好みの作家を10人挙げるなら間違いなく名を連ねる1人である。

 

本物の読書家

本物の読書家

 

  上で書いたように楽しめた。しかし物語も作品自体も上滑りをしているように感じられ、作品を読んだことで私のなかに残ったものは何かと考え出すと悩んでしまう。「ごちゃごちゃ言うなこの作品はいいんだ!」と言わせるだけの力はなかった。

 

しき

しき

 

  町屋さんは最近「1R1分34秒」というたいへん素晴らしい作品を書かれたのでこちらでこそ評価されるべきだと思う。『しき』に関しては以前の記事で深く触れた通りである。

 

 というわけで文学的素養のない素人が個人の好みだけで受賞予想をしてみた。基準は「心に残るかどうか」。非常に属人的かつ恣意的だが、選考委員だって言語化がうまいだけでやってることは同じだと思うのだけど。どうなんですか実際?