もしかして2018年上半期は豊作なのではないだろうか。
新潮6月号に掲載された谷崎由依さんの「藁の王」を読みながらそんなことを思った。
原稿用紙200枚ですって、みなさん。ご案内の通り芥川賞は長くとも250枚程度であり、200枚という分量はドンピシャなのである。
第155回受賞作の「コンビニ人間」が205枚だと言えばイメージが湧くだろうか。
あらすじとしては、大学の創作学科で小説の書き方を教える作家が、教育に携わりながら創作と向かい合い、次第に自分とも向き合うというものである。
学生たちは各々の人生において書くことの意味を求める。それは作家としての意味とは異なる。学生たちも教師である主人公も、どちらも他者を受容することができていない。立場的に教員である主人公のほうが引くべきなのだ。しかし彼女は自分では引いているつもりで、その実互角以上に低い次元で学生と対峙してしまっている。
知識ばかり豊富で、教員に足るだけの資質を備えていない自分が弾劾される様を、古代の王が焚刑に処された様になぞらえて捉える。コミュニティの新陳代謝の表出なのだと。
しかし彼女の教員としての振る舞いは正当化できるようなものだった。藁の王では間に合わず、生身の王を処する必要があった。
説得力のある、強い小説だった。
ただ、結末で妊娠をひとつのモチーフとして取り上げる部分だけ首肯しかねた。妊娠が精神的な成人のモチーフとして用いられていた。きちんと作中で、主人公が妊娠を望まない、どころか想像もできないことが述べられ、彼女が妊娠や出産を受け容れられない状態であることが示されている。エメルはそんな彼女を一跨ぎに越え妊娠を自らの意志で選択した。主人公も最後はそんなエメルと、学生と教員ではなく、ひとりの女性として対峙する。この構成が巧い。とは思ったが、しゃらくさい、とも思ってしまったのだ。あえて身体的な妊娠という問題を最後の最後で持ち出す必要があっただろうか。もっと自意識の面にフォーカスを当てるべきではなかったろうか。精神と肉体とのかかわりを描くなら、主人公の過去、友人から逃げて恋人を得た際のエピソードを膨らませれば足りたのではないだろうか。そう思ってしまった。
が、全体としては非常に力強く、時折身悶えを覚えるほど強い言葉を持った作品だった。伝統ある文芸誌から、分量としてもばっちり芥川賞に照準を合わせて発表された本作は、まず間違いなく候補入りするだろう。受賞に関しても、これまで読んだ他の候補予備軍の作品に比して、小説を書く理由、叫び、が最も鮮明に聞こえたので、受賞する可能性もかなり高いだろうと思われる。
ちなみにこの作品をもって、芥川賞の候補作予想は終わる。近いうちに候補作リストをまとめ、受賞確率の予想も改めてまとめるつもりである。