象の鼻-麒麟の首筋.com

お便りはこちら→tsunakokanadarai@gmail.com

第163回芥川賞② 番外編Ⅰ直木賞受賞作予想 澤田瞳子『能楽ものがたり 稚児桜』(淡交社)

※本文章はネタバレを多分に含みます。

 

今回は直木賞の候補作をしっかり読み込んでみたいと思う。淡交社という茶道関係の書籍を扱う出版社の本が候補入りしたことは世間を驚かせた。私も驚いた。作者の澤田さんは候補歴4回目なので直木賞としてももうベテランだ。受賞の可能性も低くはない。

 

能楽ものがたり 稚児桜

能楽ものがたり 稚児桜

 

 

しかし高くもないだろう。本作は能を題材とした短編集だ。短編集は1作ごとの出来不出来にムラが生じやすく、1作でも気に入らない出来のものが混じっていればそれを理由として落選とされてしまいやすい構造を持っている。直木賞のように保守的な文学賞ではなかなか「ここがいい!」という理由で推されて受賞となることはない。できるだけ瑕疵のない、誰が見ても悪くない作品が、結果として過半数の票を集めたりするものだ。

なお、本文章を書くにあたって、能の題材を調べるために以下のサイトを参考にした。

www.the-noh.com

 

1作目「やま巡り」(『なごみ』2018年1〜3月号掲載)。能の「山姥」という演目が題材とのことで調べてみたが、かなり大きく趣向が変えられている。親に売られた遊女百万と児鶴が都から信濃善光寺へ参る途中、山中で日が暮れ途方に暮れていると親切な老婆が一晩の宿を貸してくれる。百万が礼にと都で評判の山姥の曲舞を舞おうとするが。。。

百万は寒村の出身であった。その里では「ゆえあって婚家を出された女たちが、身を寄せ合うようにして暮らしてい」たという。そんな彼女らを人は山姥と呼んだ。百万の実母はそんな女たちの一人であったが、結局男やもめの後添えとなる道を選んでしまう。百万は結婚相手の男に疎まれ身を売られてしまう。

果たして、道中行き合った親切な老婆は百万の実母であった。母があの寒村にいるという噂を聞いた百万は、実母を憎みつつも憎みきれず、愛憎渦巻きながら善光寺詣りという嘘をついてまで母を訪ねた。うまく母と行き合った百万は、遊女として都で培った山姥の舞を母に見せようとする。母の行いの結果百万が身につけた山姥の舞を。百万が寒村の出身であることや山姥のモチーフなど無駄なく扱われているため、読者も無理なく展開が先読みできてしまう。ただ展開であっと言わせるような作品ではないため先読みできてしまうことは特に問題ではない。

親子の縁は分かち難く、憎みたくても憎みきれない。道徳の授業でも使えそうなテーマだった。

 2作目「小狐の剣」(同 2019年1〜3月号掲載)。「小鍛冶」という演目を下敷きにした作品。2作目にしてようやくわかってきたが、『稚児桜』全編を通して、登場人物や状況設定以外は完全にオリジナルのようだ。演目「小鍛冶」は勅命により刀造を命じられた鍛冶職人宗近が相槌を求めて稲荷明神に救いを求め、見事名剣「小狐丸」を完成させるという筋立てだ。しかし「小狐の剣」では宗近の一番弟子豊穂が、宗近の娘葛女を孕ませた挙句、宗近が製作した太刀を盗み行方を晦ませている、とかなり込み入った設定になっている。物語は葛女視点で進む。「小鍛冶」同様勅命を受けた宗近が刀造のために材を求め葛女を使いに走らせた際、辻で行き合った怪しげな老人に引き留められ、葛女は相談を持ちかけられる。老人が営む宿に無銭で宿泊を続ける浮浪者がいるという。しかし浮浪者はよい鋼を持っていると豪語し、果たしてそれは本当なのか見定めてほしいと葛女に依頼する。葛女は半信半疑で老人の宿へ赴くとそこにいたのは豊穂であった。宗近は刀造に用いる鋼だけではなく、これまた「小鍛冶」同様に相槌を探してもいたため、葛女は必死に豊穂を鍛冶場へ連れ戻そうと躍起になる。ようやく豊穂を連れ戻すが、完成した勅命の刀を持ってまたも豊穂が姿を消す。ここまで一切触れていなかったが、豊穂の幼なじみで同時に弟子入りした真面目な黐麻呂という人物がおり、葛女のことを憎からず思っているらしい。葛女は器量も悪くないようだ。物語として美女が美男に弄ばれ、真面目な人物が脇で蚊帳の外状態になるという一種陳腐な流れにはなっている。しかし、原作の材を生かしつつここまで話を膨らませた、というより別の物語を作り上げた筆力がすごい。

ちなみにまだあと6篇ある。

3作目「稚児桜」(同 2018年4〜6月号掲載)。材となった演目は「花月」。筑紫国(いまの福岡県)の男性が、息子が行方不明になったことをきっかけに出家し諸国修行の旅にでて、清水寺で舞の得意な花月という少年と出会うという筋書き。じっくり花月のことを見ていた男は、この花月こそ自分の息子であると名乗りを上げ、感動の対面となる。花月は七つの時に天狗にさらわれ、激動の人生を歩んでいたという。「稚児桜」では、「七つで家を離れた少年」と「父が対面する」点以外はほとんど全てオリジナルに書かれている。七つで親に身売りされた花月という稚児(僧の身の回りの世話や閨房の供をする少年)は僧たちの覚えがめでたく可憐な生活をしている。しかし花月は齢十四を迎え、稚児としての時間の猶予はあとわずかである。一方花月と同年の百合若という稚児は、未だに身売りされた身の上を嘆き閨の相手もままならない愚図である。花月の父が息子売った後ろめたさに七年越しに引き取りにくる。花月は自らの運命を受け入れ強く生きていこうと覚悟を決めており、今更父の元へ戻る気も父のことを受け入れる気もない。演目「花月」では父は息子の舞をじっくり見ただけで花月が自分の息子であることを悟るが、「稚児桜」の父は花月と百合若が並んだ時にどちらが自分の息子かも判別がつかない。もはや親子の縁は切れており、切っても切れない縁を感じさせた「やま巡り」の親子とは対照的であった。

4作目「鮎」(同 2019年4〜6月号掲載)は「国栖」という演目に材をとっている。壬申の乱を下敷きとした「国栖」は、大友皇子に狙われた大海人皇子天武天皇)が吉野(旧名国栖)に逃れた際に老夫婦が住う民家に匿われるという話だ。老夫婦の夫が鮎を大海人に供したところ、帝は半身を老人に分け与える。老人は鮎の生き生きとした有様に心奪われ、川に放したところ見事生き返り川を泳ぎ切ったという。本作「鮎」では、大友方の間諜、蘇我兎野(そがのうの)を視点人物として、大海人が遁世した先の吉野宮の人物を伴って、戦に備えるために東行する話となっている。蘇我氏は力のある豪族だったが、それがために大友から目をつけられ何かにつけていじめられていた。困った蘇我氏は兎野に間諜を命じた。東行の道中に、大海人と旧知の仲である大伴馬来田(おおとものまくだ)が援護に駆けつけ、民家で鮎が振る舞われるというところは「国栖」と同様である。しかし大海人の妃である讃良(さらら)が兎野を召し半身の鮎を川に放つよう命じる。死中に活を求める様を鮎で擬えたいという。しかし兎野は鮎を放つ際、大海人方が勝利した場合、兎野が吉兆を願って鮎を放ったことが世間に知られ、それは蘇我氏からすれば兎野が裏切ったと捉えられるだろうと考える。また大海人方が挙兵に失敗しても、結局敵方の先占を行ったとして裏切り者扱いを受けるに違いない。兎野は讃良が、兎野が間諜であることに気付いており、兎野の先を閉ざすために鮎を放つ役を与えたのだと悟る。しかしこんな手の込んだことをせずとも兎野を殺害すれば済む話なのになぜ殺さないのだろうかと疑問が浮かんだ時、兎野はまたしても悟る。殺せばいいはずの兎野を生かしておくことで天地神明の加護を受け、此度の挙兵を必ずや成功させたいという讃良の信心深さに自分は生かされているのだと。自分を手ごまと考え、いつ切り捨ててもおかしくない蘇我氏での生は終わり、情けによって生かし続けている讃良のもとで、新たな生を得たと思って過ごそうと兎野は決める。川を泳ぎ切った鮎のように、兎野は生き返った。

5作目は「猟師とその妻」(同 2017年7〜9月号掲載)。能の演目は「善知鳥(うとう)」。演目「善知鳥」では諸国をめぐる僧が、外ヶ浜へ向かう途中に立ち寄った立山の山中で、外ヶ浜に住っていた猟師の亡霊と出会い、外ヶ浜に着いたら猟師の家へ行き蓑笠を手向け弔ってほしいと依頼される。到着し弔っているとまた亡霊が現れ、猟師稼業で大量の善知鳥を殺生した罪により地獄で苦しんでいることを打ち明けられる。一方「猟師とその妻」では、まず僧の有慶は越後への使いから京の仁和寺へ帰る道中に回り道をして立山へ立ち寄っている。山中で有慶は足を踏み外し滑落してしまい、その後通りがかった男に救出される。男は外ヶ浜の猟師であった。男の妻は名うての猟師の娘であり、自分としては畑を耕していたいのだが、猟をした方が身入りが良いとせっつかれ、いやいや猟に励んでいた。しかし殺生を行うことにどうしても馴染めず、ついには家族を残し逃げ出したという。男は有慶に、外ヶ浜へ行き、残された家族に自分は死んだということにして伝えてほしい、と頼む。有慶も初めは男に家族のもとへ帰るよう訴えたが、残された家族の悲哀を思えばこそ、男の頼みを受けることとした。外ヶ浜へついてみると、そこには夫の不在を気にすることなく猟に励む妻、榎女(えのきめ)の姿があった。榎女は夫の死を伝えてもけろっとしたもので、有慶を自宅に招き肉食と姦淫で破戒行為に引き摺り込む。次の日には狩猟に加担させてしまう。有慶は自分が立山にいた男の二の舞になるかも知れぬと悟る、という筋書きになっている。「善知鳥」では殺生行為の罪深さを描く仏教哲学に忠実な筋立てだが、本作ではむしろ仏教では測り切れない人間の業の深さに焦点を当てていると感じられた。

6作目は「大臣の娘」(同 2018年7〜9月号掲載)。能の演目は「雲雀山」。本作のみ能の解説は別ページを参考にした。演目「雲雀山」では右大臣豊成公が縁遠い者の讒言を信じて家臣に娘を雲雀山で殺害するよう命じるが、姫を殺すのは忍びないと乳母とともに雲雀山で隠れて生活するという話。結局思い直した豊成公と再会を果たし、無事城での生活に戻るというハッピーエンドになっている。本作では、姫は豊成と身分の低い女との間の子であり、正室からひどくいじめられている。姫自らいじめに耐えかね、乳母に相談し城を抜け出し雲雀山に篭る、と筋が変えられている。乳母の過去のエピソードも深ぼられており、親子の関係を複数軸で捉え直す試みがなされている。

7作目は「秋の扇」(同 2017年10〜12月号掲載)。能の演目は「班女」。演目「班女」では遊女花子と少将が恋に落ち、花子は、秋にまた来ると扇を残して行った少将を焦がれるあまり、他の客を取らなくなってしまう。宿を追い出された遊女は少将を求めて都へ出向き、下鴨社で偶然再会を果たすというこれまたハッピーエンドである。本作では、怠惰な遊女花子が少将を焦がれるフリをし、同様に扇を眺めてはため息を吐くなどして他の客を取らずにいると宿を追い出されてしまう。仕方なしに都へ行って少将に金でもせびろうとするも、都の人の多さに面食らってしまう。また遊女家業に戻るかと思案しているところに、かつての遊女仲間真貴女と出会う。真貴女は少将に会いたいなら人々の評判になることだと言って、下鴨社の前で毎日形見の扇を持って少将を焦がれているフリをさせる。うまく評判が回り、ついには少将との再会を果たす。花子や真貴女の人物描写も相まって軽く読めてしまった。

最後は「照日の鏡」(同 2018年10〜12月号掲載)。能の演目は「葵上」であり、あの源氏物語から材を取っている。「葵上」は六条御息所の生き霊を退治しようとする話であるが、これと比べ「照日の鏡」はぐっと現代的になっている。久利女という醜い少女が照日ノ前という巫女に召抱えられ、生霊を下ろす憑座(よりまし)として付き従うようになる。本作の白眉は、「きらびやかな世界に生きる上流の人々は、生きる上での醜い部分を生霊に託すことで生きている、そのために巫女である照日ノ前は話を合わせている」という現代的な解釈を持ち込んだ点にある。言ってしまえば「虚飾」の二文字で片付けられるような貴族の暮らしを、古典に題材を取りながら現代的に描きなおした本作はとても面白かった。

 

以上、各作品の能との比較と感想を書き連ねた。大人の読み物という印象で、地味というか滋味深い作品だった。直木賞は受けてもおかしくないが、他作品の読み込みを進めないとなんとも予想し難い。まだまだ先は長い。