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性被害に遭うのって性的な価値を持っていると認められるということだから羨ましく感じてしまう瞬間があってそんな自分が許せない〜「改良」遠野遥、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」大前粟生(『文藝』2019年冬季号)

別にそんな話ではない。遠野遥さんの「改良」である。

文藝 2019年冬季号

文藝 2019年冬季号

  • 発売日: 2019/10/07
  • メディア: 雑誌

男性性をそのままに受け入れるのではなく、男性である自分自体を肯定も否定もせず、だからこそ無自覚に男らしい振る舞いをすることもない「私」。
人間の外見における美的価値にこだわる「私」は、次第に女性装へと傾倒していく。動機は明確には語られていないが、「メイクをしていない自分の顔を直視することは苦痛だった」(P55 『文藝』2019年冬季号)とあるため、素のままの自分から離れた装いをしたかったのかもしれない。
また、男性性を積極的に受け入れることがないだけだった「私」のことを、世間は男性的でないだけで揶揄をする風潮があり、それは小学校の頃に力の強い同級生から受けた性的強要に端を発する「私」の中に巣食う根深いトラウマであるが、それが男性性へのカウンターとして女性性への接近、つまり女性装へと至る一因ともなったのであろう。

世間には男性と女性とLやGやBやTやQやその他様々な人がいて、それぞれの人々はそれぞれの枠で規範的な振る舞いをすると錯覚している人は多い。違う。男性であること自体に疑問は持っておらずとも男性的な振る舞いをしたくないという価値観は至極真っ当なものだし、性愛の対象がストレート(この言い方もいかがなものかと思うが)だったとしても、生き方、人としての在り方に関して性別に規定される謂れはない。性愛の対象が異性であるか同性であるかということはより直接的に動物学的性別に関わっているため問題とされやすいが、日常生活においてはむしろ些細な振る舞いの中に込める性差こそ違和感を抱きやすいはずだ。性愛の対象が異性であっても同性間でそうした話題を取り上げることを好まない。こうした場合、「自分たちは普通異性愛者でありそうした話題は当たり前に全員の関心事だから喜んで猥談に興じて然るべきであり、かの者がこれを好まないのは当然同性愛者であるから」という短絡的な意味づけが、さらにはそれを蔑視したり揶揄するような風潮が形成されることがままある。たとえ異性愛者であってもそうした話題はしたくない、という人がいることが受け入れられない人がいる。大前さんの「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」は読者をこんな当たり前の絶望に立ち返らせてくる。性別は生物学的役割と社会的意味づけが不可分にあり非常にややこしい。そのややこしさにこだわり悩み前に進めない人はかなり多いのではないか。ポップな表紙につられて読んで大ダメージを喰らったという人は多いのではないか。もしくはダメージすら受けず「彼らは何をこだわっているのか」と一笑に付した読者もいるだろうか。

どちらの物語も淀みなく進み、かなり重量のある筋立てにもかかわらずあっという間に読み終わってしまった。文章も妙な引っ掛かりを感じさせない。この物語はおそらく一読で何かを残すようなものではなく、折に触れ再読させその度に当たり前だと扱われている社会的生物的性別に対する疑義の眼差しを取り戻させてくれる、ような気がする。