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愛と「べき論」の自縛〜「おぼれる心臓」坂上秋成(『文學界』2019年12月号)〜

優れた小説は人の心を抉る。 

文學界 (2019年12月号)

文學界 (2019年12月号)

  • 発売日: 2019/11/07
  • メディア: 雑誌
 

おかげで眠れなくなった。坂上秋成さんの「おぼれる心臓」である。

前作「私のたしかな娘」を読んだときにかなり心を掴まれていたので遅ればせながらようやく読んだが、今作も快作である。 前作については以下の記事に詳しい。

tsunadaraikaneko-538.hatenablog.com

 今作の主人公はイングランドの三部リーグのフットボールチームでセンターフォワードを任されているシンゴ。妻のコハルはアイドルだったが、シンゴのイングランド移籍を機に結婚し芸能界を引退する。この夫婦の仲は決定的な何かがあったわけではないが冷めつつある。

シンゴは妻に対しては男として頼れる存在であろうと振る舞おうとする。しかしいつしか日常の些細なことで妻に対してあたってしまうようになる。妻に対し引け目を感じるようになり、性交渉に及ぼうとしても妻の目線にたじろぎ不能に陥ってしまう。そんなことが続き、いつしか妻は自分にオスであることを求めなくなっていることを感じ取る。

所属チームにおいては、監督のモーガンから、プレーにおいて頭を使っていないことを指摘される。フォワードというポジションに求められるものにばかり気を取られ、自分のプレーを型にはめにいってしまっていた。

このシンゴの人物造形は、非常に素直でありしかも思慮深い。そのため、上記の困難に関してもコハルやモーガンの指摘を冷静に受け止め、苦悩しながらもやはり冷静に己の状況を分析し対処できる。そのため、文芸誌の上下2段組で51ページという短い枠の中で、これだけの苦悩を結末でカタルシスに結びつけてうまく収まっている。

実際は、シンゴのように役割に敏感で、「夫はこうあるべき」「フォワードはこうあるべき」という考え方をしている人間は、もっと悪い意味で頑固で人の言うことに聞く耳を持たないものだと思う。しかし本作は、そういった人々が現実において苦しい状況をどのように打開することができるか、ある一つの枠組みをすっきりと見通しの立つ長さで示したと言う点で、非常にすばらしい作品だと私は思う。