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第162回芥川賞② 候補作予想「デッドライン」千葉雅也(『新潮』9月号)

 学者が小説を書くと周りの教授陣から冷遇されるという話を筒井康隆さんの『文学部唯野教授』で読んだ。文学賞の候補に挙がった唯野教授は身バレを恐れて辞退しようとする。しかし最近では学者が文学賞を受けることはそう珍しいことでもない。松浦寿輝さんは芥川賞を取っているし、元東大学長の蓮見重彦さんも三島賞を取ったし、社会学者の岸政彦さんは三島賞芥川賞の候補にも挙がっている。千葉雅也さんが小説デビューを飾った本作「デッドライン」が芥川賞などを受けることは千葉さんにとっても望ましいことなのかもしれない。分量は230枚でちょうどよいボリューム。

新潮 2019年 09 月号 [雑誌]

新潮 2019年 09 月号 [雑誌]

 

  主人公は終始名前を明かされない僕(周囲の人物からは「○○くん」と呼ばれる)。フランス現代思想修士課程に進んだホモセクシュアルである「僕」が仲間たちと過ごす日々を描いた作品。本職の先生ならではの哲学思弁的要素が面白いだけでなく、ジェンダーを扱った小説としても厚みがあって良い。

 例えば「僕」が周囲にゲイだと言って回っていることを聞きつけた父親との一幕を引用する。

 ある日、書斎にいるときに父から電話がかかってきて、ほとんど前置きもなく、

「お前さあ、周りにゲイだって言って回っているのか」

と怒った口調で言われた。「言って回る」だなんて悪し様な言い方だし、きわめて不快だ。(中略)

 友達にも言っているのか、と詰問される。

「言ってるよ」

「冗談だったと言いなさい」

 とんでもない。僕は激昂した。

「なんで嘘つかなくちゃならないんだ。ありえない」

 怒りをぶちまけると、父は急に弱腰になり、ミュージシャンの誰それも両刀だって言うしな、などと言葉を濁し始める。

(P46)

 本当はこの一幕にも家庭環境などのさらなる背景が存在する。そうした具体的なしがらみの中でもがき続ける主人公の姿に共感を覚えてしまう。マイノリティに対する抑圧を力強く跳ねのける主人公の姿から勇気を得られる。

 さらにただセクシャルマイノリティを要素として提示するだけでなく、「僕」という個人が自分の性的志向をどう分析しているかも詳しく述べられているところが良い。

 九〇年代の後半には、肘が出っ張ったジャケットとか、襟が透明なビニールのシャツとか、新進のインディーズブランドの前衛的な服を着ていた。高校時代までの僕は、八〇年代からのDCブランドのスーツを着たりしていて、一度も若者らしいカジュアルを通過していなかった。普通の男子になることができなかった。普通であること、男子であることが、僕にとってずっと巨大な謎なのだった。

(P30)

 『千のプラトー』の第十章は、全体としては動物になることを言祝いでいるのだが、その一方で、あらゆる生成変化はまず女性になることを通過する、と言われたり、また、動物への生成変化は途中段階にすぎない、と言われたりする。

 僕は、動物への生成変化をテーマに掲げながら、むしろ女性という在り方に引っかかっていた。

「女性になりたいわけじゃない」(中略)

 僕は、自分には欠けている「普通の男性性」に憧れていた。おそらくはその欠如感が、僕を動物というテーマへと導いている。動物になることを問う、それは僕にとっては、男とは何かを問うことなのだ。

 動物になること、それは、男になることなのだ。(中略)

 動物は速い存在なのだ。というのはノンケの男と同じ。ノンケはこの意味で動物的なのだと僕は思っている。

 荒々しい男たちに惹かれる。ノンケのあの雑さ。すべてをぶった切っていく速度の乱暴さ。それは確かに支配者の特徴だ。僕はそういう連中の手前に立っていて、いや、その手前で勃っていて、あの速度で抱かれたいのだ。批判されてしかるべき粗暴な男を愚かにも愛してしまう女のように。

 僕は女性になることをすでに遂げている気がする。物理的にメスになるのではなく、潜在的なプロセスとしての女性になること。僕の場合、潜在的に女性になっていて、動物的男性に愛されたいのだが、だがまた、僕自身がその動物的男性のようになりたい、という欲望がある......

(P59)

  作中では男性性は、性別に疑問を抱かず欲望に忠実な性別であり、結果として乱暴な速度を持つと表現されている。もちろんこれは作中の「僕」の感じ方でありそれが一般的に正しいとか正しくないとかはどうでもよい。ただ「僕」はそのように感じ、さらには自分にはないそのような「普通の男性性」に憧れてしまう、という複雑な感情をきちんと言葉にしている点が、「僕」の人物描写をとてもていねいなものにしている。

 

 これだけアツく語っておいてなんだが、一読して呑み込み切れていない部分もあった。しかし小説に限らず一度ですべてわかろうというのは傲慢である。も一度、二度と読み返してみようと思わせてくれた時点で、この作品は勝利を収めていると言えるだろう。ぜひ候補に挙げていただいて、芥川賞で本作がどのように扱われるかを観察したい。