象の鼻-麒麟の首筋.com

お便りはこちら→tsunakokanadarai@gmail.com

第160回芥川賞㉙ 受賞作予想確定版(直木賞も)

 お祭りに備えて私は早退してきた。

 年に二度。お祭りとしてはしょっちゅうやりすぎの感あり。でも回数減ったら悲しいからこのままで。

 それでは最終的な受賞予想を発表しよう。今回は本家の結果をシビアに予想する。しかし隠し切れない私の好みがもれいづるさやけさも感じてもらえれば幸甚である。

 芥川賞

本命

町屋良平  「1R1分34秒」

対抗

高山羽根子 「居た場所」との2作受賞

大穴

上田岳弘  「ニムロッド」

 

 一気に何作か読んだ際にそれらの作品がどことなく似ていると感じてしまうのが人情というものだが、そんな主観を抜きにして今回は横文字が多かった。何かと話題の古市さんの「平成くん」はブランドが頻出したり実在の著名人が登場したりなんでもありの感があった。注釈が大量につけられていないだけでやっていることは元長野県知事の二番煎じではないだろうか。ただ、同時代を描くとどうしても作品を発表した時点ですでに古びて感じられてしまうものだが、ほんのすこし先まで描くことで、少なくとも発表時点では古びていると感じさせない点は面白かった。
 同じく横文字頻出の「ニムロッド」だが、氏が三島賞を取った「私の恋人」よりもずいぶんSF風味は薄れた。というよりこれはよくある純文学だなあと感じた。今回の候補作のなかでいちばんこれまでの芥川賞っぽい候補作かもしれない。少なくとも後述のダンチュラデオとかと比べればずいぶんオーソドックスである。オーソドックスが悪いわけではないが、その分完成度に着目されることは避けられない。私にはすべてが成功しているとはとても思えなかった。ビットコインという題材も中途半端に古い。
 小説の形式から問題作として勝手に注目していた鴻池さんの「ジャップ」、本文はすべて「ダンチュラ・デオ」という架空のバンドのウィキペディアを引用したベストアルバムのライナーノーツという設定である。このウィキペディアのページではダンチュラ・デオのメンバーとそれを邪魔する集団によって編集合戦が繰り広げられている。どこまでが元のページでどこからが編集合戦の結果なのか。気持ち悪くなるほどわからない。例えば、

「たった一人の一言で、ダンチュラ・デオなるバンドが俄かにリアリティを獲得するとは考えていなかった。僕とてそれは承知していた。」(『新潮』九月号 一二頁)

という記述など、端的にどっちやねん、としかツッコめない。ネットで巨大化する情報から本当とか嘘とかより分けられないという無力感は確かに残った。それがこの作者の創作動機なのかもしれない。 ただ、だから何? と聞きたくなってしまうのが人情。私にはその先に訴えかけてくるものは感じられなかった。だからこの作品を推すことはできない。そういえば五四頁で「マキシマム ザ ホルモン」のことを「マキホル」と略していて、自覚的にしたのかわからないが意図は不明だったのでやけに好戦的だな、と思った(彼らの表記へのこだわりは有名な話)。
 高山さんの「居た場所」は横文字三作とは大きく違った雰囲気を持っていた。「生きている」と「死んでいる」に敏感な作品だった。冒頭で小翠は酒の発酵にあてられて顔色が草色になってしまうが、発酵させる微生物が身体の中でバランスを取って生きているという事実を聞いて桃色へと回復する。微生物はどんな場所にもいて、生きているものにも死んでいるものにもいる。しかしその種類は異なる。死んでいく場所がかつて居た場所だろう。廃墟同然のかつてのアパート、移転を余儀なくされた市場。そこにはかつてのような活気ある人びとはいない。しかし死んだ場所にもそこでバランスを取ろうとする微生物がいる。場所と記憶がカギになっていることはわかる。記憶があいまいになってゆくとその土地の存在さえもあいまいになってゆく感覚の不思議さ。むかし『ちびまる子ちゃん』の幼少期のエピソードで、裏道を通っていたら見知らぬ洋館を見かけそこで遊んだが後日二度と見つけられなかったというものがあり、その話も洋館の存在自体まやかしだったのかもしれないという不確かな終わり方であった。今回の作品と似たものを感じた。一読して、わからなさが心地よいと思えた。その後、できるだけ懸命に不思議な部分を理解しようと努めたが、それは無粋だったのかもしれない。純粋に分からない部分をわからないままほったらかしても、この作品なら罰はあたらないだろう。結局黄緑色の液体はなんなのか。結末なんて意味がわからなさ過ぎて固まってしまった。おもわず笑いが込みあげてきた。
 「戦場のレビヤタン」は、後述の「1R1分34秒」にも通じる「限界状況での人間の思索」がテーマだろうと思うのだが、残念ながらこの作品は私の中で最も大きな×をつけた。「1R」と比較するとこの作品の小説としての完成度の低さが目立つ。戦場という舞台設定で死に関する持論を展開している。それがあまりにもむき出しなので読んでいるとうるさく感じられてしまう。もちろん戦場の描写などはリアリティがあふれているが、それは作品を作るうえでの道具であり、それによってどのような作品を構築するかが疎かになっているように感じられた。作者は自衛隊員だったようだ。その体験が創作動機なのだろうから、もっとじっくり向かい合って熟した作品を発表してほしい。
 そして「1R1分34秒」だが、これが今回の大本命である。この作品は、私のなかでは「自意識肥大モノ」として分類している。プロボクサーの主人公はデビューこそKOを飾ったもののその後は鳴かず飛ばずの体たらく。試合後に体に残る痛みにボクサーとしての存在証明を頼るほどの情けなさ。負け続けの自分に一番愛想を尽かしているのは自分だが、周囲から人がいなくなることにも焦燥感を覚える。ついにトレーナーからも見放されたが代わりに担当についたウメキチとの出会いが転機となる。それまで思弁的な自己の性質やトレーニングの詰めの甘さなど、自分に関する事象を否定ばかりしてきた主人公に対し、ウメキチは冷静に長所も短所も認め指摘する。それまで人との深い関わりを意識的に避けてきたことも相俟って、自分の知っている自分にこだわり続けていたが、まっすぐ主人公と向き合うウメキチのありように、「ウメキチを信頼するというゲーム」には乗ってみてもいいかもしれない、とまで思うようになる。このあたりの素直じゃない感じがかわいい。こう書くとありきたりな成長小説に感じられるだろう。実際それは否定しない。しかしその王道を見事に結実させた胆力には敬意を表すべきである。特に文章が私の好みであり、隅々まで物語を楽しむことができた。

 

直木賞

本命

森見登美彦 『熱帯』

対抗

深緑野分  『ベルリンは晴れているか』

大穴

今村翔吾  『童の神』

 

 不埒な予想者であるところの私はこの三作しか目を通せなかったのだが、どれも佳品であった。佳品なんて澄ました言い方をしたいのは深緑さんの作品に対してであって、森見さんのは絶品、今村さんのは「バリくそ激うまチャーシュー麺」という感じである。

 今村さんの作品の品位を疑ってもらっては困る。形容するならチャーシュー麵に匹敵するパンチのあるうまさであったということであり、むしろほか二作よりも現代書かれるべき必然性も感じられた。被差別部落民を指す名称「童」に属する者どもが貴族と戦う。材は大江山の鬼退治など史実に基づく部分が多く、歴史に詳しい人なら結果はわかってしまっている。それでもそこで展開される人間のドラマは息つく間も与えずにクライマックスへと私たちを誘う。この作品が直木賞を取れないなら直木賞など必要ない。

  ということで今回から選考会が早まったため、いつもより早いおまつりまであと40分あまり。心して待たれよ。