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第160回芥川賞㉓ 受賞作予想「居た場所」高山羽根子(『文藝』冬季号)

やっと読んだ 

文芸 2018年 11 月号 [雑誌]

文芸 2018年 11 月号 [雑誌]

 

 なんだかぞわぞわした

 

 ある酒蔵の息子のもとへ嫁いできた留学生小翠がかつてひとり暮らしをした土地へ赴く話。題名が示すとおりかつて居た場所の話をしているだけで、いま居る場所がどんどん不確かになっていく。

 夫を連れ立ってかつて居た場所を訪れた小翠はインターネット上に掲載された地図情報が不確かであったため、自分で地図を再現しようと試みる。合間に回想が挟まり小翠の幼少期の思い出が重なる。通っていた小学校が考古学の発掘作業でしばらく使用できなくなり腹いせに出土した壺を窃盗、中身の謎の液体(蜜のように見える薄い草色に透きとおった、とろみのある液体 P201)を摂取するも無味(私たち自身とまったく同じ味だから?)、その後耳から黄緑色の汁が、罠に塗るとタッタ(島にしか居ない生物、外来種だが本来の生息地では絶滅 P228)がよく捕まった、タッタの内臓は黄緑色に染まっていることがあった、という不思議なエピソードが挟まる。夫とともにひとり暮らしをしていたころ住んでいた建物を訪れた大人に成った小翠は非常に苦しみ悶えながらふたたび黄緑色の液体を放出する。その直前謎の破裂音を耳にするのだが、これは夫も同じである。吐き出された液体を口にした夫も同じく苦しむ。妻小翠の身を案じていたときは消えたと思っていたが、破裂音は続いていた。液体の匂いは市場の死んだ生きものの匂い、味は無味。おそらく直前に市場を散策したことが引き金になったのだろう。

 「生きている」と「死んでいる」にも敏感な作品だった。冒頭で小翠は酒の発酵にあてられて顔色が草色になってしまうが、発酵させる微生物が身体の中でバランスを取って生きているという事実を聞いて桃色へと回復する。微生物はどんな場所にもいて、生きている生きものにも死んでいる生きものにもいる。しかしその種類は異なる。

 死んでいく場所がかつて居た場所だろう。廃墟同然のかつてのアパート、移転を余儀なくされた市場。そこにはかつてのような活気ある人びとはいない。しかし死んだ場所にもそこでバランスを取ろうとする微生物がいる。

 場所と記憶がカギになっていることはわかる。記憶があいまいになってゆくとその土地の存在さえもあいまいになってゆく感覚の不思議さ。むかし『ちびまる子ちゃん』の幼少期のエピソードで、裏道を通っていたら見知らぬ洋館を見かけそこで遊んだが後日二度と見つけられなかったというものがあり、その話も洋館の存在自体まやかしだったのかもしれないという不確かな終わり方であった。今回の作品と似たものを感じた。

 一読して、わからなさが心地よいと思えた。その後、できるだけ懸命に不思議な部分を理解しようと努めたが、それは無粋だったのかもしれない。純粋に分からない部分をわからないままほったらかしても、この作品なら罰はあたらないだろう。結局黄緑色の液体はなんなのか。結末なんて意味がわからなさ過ぎて固まってしまった。おもわず笑いが込みあげてきた。

 一年前の芥川賞ではマジックリアリズムと言われた石井さんの「百年泥」が、すっかり人気の「おらおら」若竹さんと同時受賞していた。今回もわかりやすさの町屋さん、わからなさの高山さんで同時受賞がバランス良いのかもしれない。まだ読めていない作品もあるが受賞には足る力作だと思う。