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第160回芥川賞⑳ 番外編Ⅵ 直木賞候補作予想『ぎょらん』町田その子(新潮社)

 

ぎょらん

ぎょらん

 

  もったいないオブザイヤー。最後から2番目の章を読み終えた時点ではこれが今回の受賞作だと確信していた。

 人が死ぬときに抱く強い想いは「ぎょらん」という赤い珠としてこの世に残るという。その「ぎょらん」にまつわる短編集。設定は独特だが筋立ては非常にオーソドックスで、人間を一面的に捉えてはいけないという教訓が全編を貫いている。親友が残した「ぎょらん」に込められた強い憎悪の念に苛まれ社会をドロップアウトした青年朱鷺(とき)をはじめ、みな人生に何か問題を抱えている。そしてそれらは基本的に人の死という取り返しのつかない事態に関わっている。自分の物の見方によって決めつけてしまう人間の弱さと、そのせいで招いてしまう取り返しのつかない事態、そこからたちどころに現れる拭いきれない後悔。それらに立ち向かうには人はどうあるべきか。

 序盤は設定を読者に伝えるためといった趣きだったが、後半へと進むにつれてどんどん物語に引き込まれてゆくのを感じた。最後の章さえなければ本当に素晴らしかったのだが。

 作者が語りたいことを語るために綺麗に作りこまれた物語だった。丁寧に前フリをして読者が忘れないうちに回収する。大小さまざまなフリはすべてきちんと回収される。それがこの物語の読後の余韻を殺してしまったように思う。最後の章は朱鷺が母の死を乗り越えるという主題が置かれているが、なぜこの章は必要だったのだろうか。朱鷺は葬儀社に務めはじめてさまざまな人の死を経験し、確実に前向きに変わり始めていた。憧れの人も現れた。なぜ作者はそこから読者が想像しうるその後の物語を殺してまで一つの方向に絞ってしまったのか。私にはそれが非常に不満だった。

 大小の前フリをきれいに回収しすぎてしまう癖も物語の感興を削ぐ点ではあるのだが、私はむしろそれは物語を作りこむことのできる技量を持っている証だと感じた。ただ最後の章だけはどれだけ贔屓目に見ても蛇足だった。起承転結のバランスがきれいにとれていることよりも読者に強く訴えかけられる形を意識することの方が小説にとっては重要ではないだろうか。

 もしこれからこの作品を手に取ろうと思っている方がおられたら、最後から二番目の章までをひとつの作品として読んだうえで、一番最後の章は後日談のエピローグとして楽しんでみてほしい。

 

 正直言って候補入りも怪しい。ただ途中までは本当に素晴らしかったので次の作品では全部言ってしまうのではなく、あえて言わない部分を残してみてほしい。