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文学者になりきれず周縁部でおまつりさわぎをするの巻

小説だからこそ、ってなんだろう

私は小説が好きなのだ。読書が、文字を読むことが好きなのだ。活字離れなんて言葉もそこかしこで聞かれる世の中で、私は文字を読むことに飢えている。

私はなぜ活字離れができないのか、なぜ世間では活字離れが進んでいると言われているのか。この不可思議は折りに触れて私の脳裡を席巻した。

 

基本的に義務教育以来、人々は読書尊重志向を植え付けられているので、面と向かって読書を否定されることは少ないが、陰に陽に軽んじられる趣味ではある。

「そんなに本を読んでどうするの」

「本買う分のお金でもっと身だしなみに気を遣いなよ」

「本もいいけどもっといろいろな世界を知った方がいいぞ」

 

私は別に読書しかしていない人間ではない。そんな人間はいない。生きていくために働いてものを食べて眠る。そんな生活の一部分に読書がしっかと根差しているというだけだ。身だしなみに関しては人に不愉快に思われないようには気を付けているのだが、同じ服をよく着ているのでこんなことを言われてしまった。服装もひとつの趣味だとは思うが押し付けられるのはたまったものではない。基本的に衣服は布であり、倫理に逸脱しない見た目を担保し、暑さ寒さやケガから身を守ることが出来れば足りているのである。衣服を趣味とする人が衣服に執着しない人に物申す態度はいかがであろうか。海外にも行くし交友関係だって無理に広げようとはしていないが世俗を絶つような勢いのものではない。すべては「読書を好むヤツ」という偏見の下に気付かれたステレオタイプなイメージだと思うのだが忠告してくれたYくんはどう言うだろうか。

 

私の読書量は年間200冊程度だ。これは単行本や文庫本に限るので、これ以外に文芸誌をはじめとする雑誌なども読むので、全体としては200冊+αといったところ。確かにこのペースは少し過剰かもしれない。しかし、バケモノ的、人生のすべてを賭して読書に耽っていると考えるのは早計だ。

読書は経験を積むほど速度が上がる。私は一度読んだだけでは気付かないことが多く、早めの読書を二度三度と繰り返すようにしている。200ページ程度の文庫本なら、内容にもよるが2時間はかからない。一度読んだだけでは1週間も経たないうちに半分以上抜け落ちるので、気になったものはまた読み返す。

200冊の読書経験のうち、100冊以上はさらっと読んだだけで読み返してもいないので、読了したと胸を張って言えるものではない。

それに200冊だってコンスタントに読み続けているわけではない。忙しい時期には2週間くらい読めないこともある。しかし週末など時間がまとまって取れるときには、一日に2-3冊読む。多ければ5冊くらい読む。休みの日は一気に読めそうな長さの本を読み、日常的には長編をちびちび読むというように使い分けている。さらに外出用の本と家の中で読む用の本も使い分けている。外出用は古本で買ったもの、お家用は新品で買ったものだ。長い本は並行して読み進めるので一気に5冊以上読み終える日もある。

 

日常の隙間で本を読む習慣がなければ気付かないだろうが、月に10冊程度ならその気になれば誰でも読める。読み方は浅くて構わない。気になった本だけ繰り返して読めばいいのだ。とにかく多くの本に触れることで自分の好みがわかり、面白い本を探索する能力も高まる。読むスピードも高まる。読書沼にはまる。これは小説に限らない。どんな種類の本であっても、本でない趣味であっても同じだ。

 

小説は物語を伝える媒体だ。同様のものに、マンガ、音声(ラジオドラマや音楽)、映画などがある。一般的に小説とその他の媒体を比べたときに、小説が伝える情報量は少ないと思われがちである。多くの人は情報量の多い他の媒体を好むのかもしれない。

 

小説には映像がない。音もない。文章が、単語が、文字があるのみである。いや本当は紙がありインクがありフォントがあり文字組みがあり装丁のデザインがありそれらの匂いや重さや手触りがあり、それらすべてが小説を作っている。これらはすべて映像にはない要素である。音楽にもない。

それでも物語自体を伝える手段としては視覚的にマンガの方が、聴覚的に音声の方が、臨場感的に映像の方が上回っている。

その分、小説は読者の想像に任せる部分が大きい。

物語の起承転結によって消費者の感情をコントロールしたい(ここで泣け、ここで笑え)と思うなら、エンターテインメントとして完成されたものを提供したいと思うなら、情報量の多い媒体に軍配が上がる。

文章のみから想像によって自由に膨らむ世界、いつでも立ち止まりそのまま思索に耽ることができる気ままさ、そして文章自体が持つ力(町田康さんの「くっすん大黒」を読まれれば何か感じるところはあるだろう)。これらが小説の持つ本来的な強みだ。特に想像力は小説が社会に対して果たす役割として現代論じられて然るべきである。

小説は情報量が少ないので、物語を読む読者が自分の中で感情も表情も音声も映像も補いながら読み進めなければならない。これが他者の心中を慮る訓練になるとは考えられないだろうか。ある場面でAくんはBくんを裏切る。読者はすでにAくんの辛い境遇を知っておりBくんを裏切らざるを得ないことに共感する。しかしBくんの血の叫びを目の当たりにしたとき、Bくんの悲痛な内面に想いを馳せざるを得ない。世間にはさまざまな利害関係があり、事情があり、合理的な行動も非合理的な行動もあり、人間の数だけ正義が存在する。ままならない社会を物語の中で少しずつ理解していくことは、社会の厳しさから受けるショックを少しでも軽くするために重要だろう。

 

これらの効果が他の媒体からでは得られないと言っているのではない。ただ想像に頼る部分は小説が最も大きいと述べているのである。優劣をつけているのではない。小説ならではの特色を挙げているのである。

私は小説に比べると少量だが、マンガを読むしアニメやドラマや映画を観るしラジオを聴く。それだけにとどまらずたまには啓蒙書なんかも繰ってみるし実用書に手を伸ばすこともある。別に偏屈に小説だけにしがみついているわけではない。

 

私に対して「読書人」というレッテルのもと、余計な忠告をしてくれた方は、これまたステレオタイプな忠告で申し訳ないが、もう少し読書をしてみてはいかがだろうか。読書には読書でしか得られない経験があり、決して映像の下位互換などではないことを理解してもらえるだろう。

 

私も読書を好むだけで読書をしない人に対し物申してしまった。本当に余計なお世話だしうっとうしいだろうなあ。読書嫌いの目にこの文章が触れないことを祈る。衣服然り読書然り、並べて趣味は人を盲目にするのかもしれない。好きが人を盲目にするのかもしれない。恋している、私。アンドお前。