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文学者になりきれず周縁部でおまつりさわぎをするの巻

第159回芥川賞③ 候補作予想「サーラレーオ」新庄耕(『群像』5月号)

読みましたよ。新庄耕さん。「サーラレーオ」

はじめに言いますが、超傑作です。面白い小説を求めている人は5月号の『群像』をお求めください。

どこがどう傑作なのか、評論や解説といったたぐいのことは、作品とある程度距離が置けないとできないのだと思い知らされた。つたない文章はいつも通りのこと、かなり作品に肩入れしてしまっていることを先に付記しておく。

群像 2018年 05 月号 [雑誌]

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ざっくり話の筋としては、不良を極めた主人公トモは諸事情あってやくざに追われる身になりタイへと逃亡。そんなトモの行いの数々を追体験しながら物語は進む。疾走感にあふれた文章は息つく間も与えず、一気に読んでしまった。

題名の「サーラレーオ」とは、タイ語で「人でなし」という意味だ。ピカレスクロマンとしてはぴったりの題名だろう。

トモは引き返せない段階まで悪に踏み込んでしまう。しかしそこに戸惑いはない。恐れるのは社会ではなく、やくざのヨシくんだけだ。

終盤、恋人のアナンヤによって身を警察に売られたトモが激昂した際、アナンヤはトモを「サーラレーオ」と罵る。碌に生活費も納めずアナンヤのもとへ転がり込んだ挙句、そのアナンヤに対し暴力まで振っていたトモへの仕打ちとしては、当然なことだった。

アナンヤからの「サーラレーオ」を受け止めたトモは

アナンヤの言うとおり、おれは最低最悪な人間なのかもしれない。それのなにが悪い。(P124)

と開き直る。ここにトモの人間性が集約されているだろう。トモが国家によって裁かれる日が来るのかはわからない。しかしトモに安寧は訪れないだろう。結末からもそれははっきりと伝わってきた。

この作品は徹底して人物を描き出すことに焦点を置かれていた。その背後にメッセージを読み取るのは読者の仕事だ。芥川賞界隈の作品は、なんだかメッセージ性が強く、これを言うために書いたんだよーというエゴが前面に出て、純粋に物語世界を楽しんでもらうというプロ意識に欠けたものが多いように感じる。しかしこの作品はきっちり物語だけを読者に提供し、そこから読者が受けるものに関しては作者は手を振れないようにする謙虚な姿勢が伝わった。

通常こういう作品は直木賞を受賞する傾向にあるのだが、掲載されたのが文芸誌の「群像」だったので、一応芥川賞の候補として取り上げた。この作品が芥川賞を受賞すれば面白いなあ。

 

 以下、グッと来た表現を二ヶ所紹介して締める。

ひとつめ

「好キスき」 (P98)

これは白い錠剤でブッ飛ぶ女の発言。恋人がその場に居るのにトモの肉体を烈しく求めるその瞬間のひとこと。ブッ飛んでいる様子、その瞬間的な高まりがありありと感じられる素晴らしい4文字だと思った。

 

ふたつめ

タイのゴーゴーバーにしろ日本の秘密売春クラブにしろ、売り物の女がいくらか違うだけで大差ない。誰彼なしに振り撒かれる微笑みも、その場しのぎの薄っぺらい愛の言葉も、体温そのものでしかないひと肌の温もりも、満たしたはずの情欲すらも、しょせんは都合のいい自意識が見せる幻に過ぎない。

こちらは少し長めの抜粋。物語をひたすらに描いているといった本作の中ではメッセージ性の強い箇所。トモの価値観がうかがい知れる。たたみかけるような語り口が深く胸に刻まれる名調子。

 

以上、「サーラレーオ」について取り上げた。改めて、私はこの作品を強く推挙する。しかし芥川賞の性格から考えると候補作入りすることも難しいかもしれない。昔であれば直木賞の方でノミネートされることもあったかもしれないが、近年では単行本化された作品ばかりが対象となっており、こちらも望み薄か。。。お手並み拝見だ、日本文学振興会