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文学者になりきれず周縁部でおまつりさわぎをするの巻

第159回芥川賞② 候補作予想「泥海」陣野俊史(『文藝』夏号)

河出書房が発行する『文藝』は、五代文芸誌の中で唯一の季刊誌である。現在発売中の夏号は、前回紹介した『文學界』5月号に負けず劣らず気合が入っている。(芥川賞に対して)

 

文芸 2018年 05 月号 [雑誌]

文芸 2018年 05 月号 [雑誌]

 

 

文學界』5月号は質を高めた一作「送り火」を送り込んできたのに対し、文芸は数で勝負といったところか。「気鋭中編×4」と号して一気に4篇の中編が掲載されている。今回は陣野俊史さんの「泥海」を取りあげる。原稿用紙換算192枚。芥川賞を狙いに来ているだろう。

私は光の兵士たちの妹。私もまた兵士の一人。――泥濘と腐臭の中を歩き続ける彼らは、いつしか語り始める……「私の話」を……この瞬間、世界で何が起きているのか? 気鋭が挑む、文学の臨界!(文藝の案内|河出書房新社より)

あらすじを書くのは難しいのだが、イスラム教に関する身辺雑記のようなものだった。率直に言って読む価値はなかったと思う。時間を返してほしい。

身辺雑記ならイスラム圏の人が書いたものを読みたい。著者だからこその伝えたい何かがあるのだろうと思って読み取ろうと腐心したがとうとう見つけられなかった。残念だ。

冒頭の日本人はページをめくった瞬間に消え失せイスラム圏の世界に移り変わる。ふたつの世界が交差しながら話が進むのかと思えば最後の章まで日本人は出てこず、出てきても大してかかわりもしない。最後まで読んでもあんまり意味は分からなかったが途中で投げ出していればもっと意味がわからなかっただろう。単にひまつぶしや読む価値のある文章を求めている素朴な読者は間違いなく途中で投げ出すことだろう。

読者に読者としての素養を求めることは悪いことではない。ただ作者が読者に求めるものが大きすぎ、作者としての読者への配慮が感じられない作品は肥大したエゴの塊であり、それはすなわち駄作である。

もう少し話をすると、作中であんまり時間を行ったり来たりするもんだから悪酔いしそうになった。その時間軸の度重なる横断縦断が重層な構造を作りあげているかと言えばまったくそんなことはない。いたずらに酔うばかりで読後感は非常に悪い。

イスラム教界隈の風俗を知るという意味では少し教養になったが、近いモチーフを使った宮内悠介さんの傑作『後は野となれ大和撫子』を読む方が遥かに有用な時間を過ごすことができる。

純文学は読み手に面白がってもらうよりも、何をどう伝えるかに主軸を置いているものだ。その点は理解しているつもりだ。しかしそれは伝わらなければ意味がない。この作品は時間軸がぐちゃぐちゃでそれによって何を語りたかったのか全く見えなかった。

文學界』5月号では文学界新人賞の発表が行われていたが、受賞作はなしとなっていた。選評では多くの評者が、無自覚にただ小説を書いているという指摘をしていた。今作にもその指摘はあてはまるだろう。無自覚に時間軸を行ったり来たりする、無自覚にちまちま「1」や「※」で文章を区切る。もっと丁寧に書いてほしい。

陣野さんは調べてみると文芸評論家のようだ。本当に小説を書きたくて実力で誌面を獲得したのなら全く問題はないのだが、もしかしたらあまり乗り気ではないが無理に頼まれて執筆したのだろうか。

この作品は候補作には入らないだろう。そして入ってくれるな。お願いだから。こういう訳の分からない面白くないだけの読者への配慮のない文章を読ませられるのは苦痛だ。

前回、新庄耕さんのことを取りあげると書いたが、こちらの都合で入れ替わってしまった。もしかしたらもう少し『文藝』特集が続くかもしれないが、いつか必ず新庄さんは取り上げる。