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絶え間なく傷つき傷つけられ、それでも生きてゆく ~サラバ! 西加奈子~

2月のはじめにインフルエンザに罹り熱に浮かされながら読み始めたはずなので、読了には都合2か月ちょっとかかったことになる。西加奈子さんの『サラバ!』(小学館文庫)はえげつない小説だった。 

サラバ! 上 (小学館文庫)

サラバ! 上 (小学館文庫)

 
サラバ! 中 (小学館文庫)

サラバ! 中 (小学館文庫)

 
サラバ! 下 (小学館文庫)

サラバ! 下 (小学館文庫)

 

 

 私は揺れている。生きていくうえで必要な幹を持てていない。ふらふらと揺られながら生きることは不安定で先が見えない。それは一見社会的に安定した地位にあるとかそういうこととは関係ない。

生きるためには揺れない幹が必要だ。絶対に。おそらく多くの人は身体の成長に比例して幹も育ててゆく機会に恵まれる。

私も機会はあったはずだ。しかしあまりに臆病で。逃げる癖が強すぎて。立ち向かう術を何も持たぬまま困難が立ちはだかるばかりで逃亡者のレッテルに身を窶した。

私は作中の”貴子”(姉)が全力で嫌いだった。腹を立てたのではない。嫌いなのだ。怒りは感情の一つで、後ろ向きな意味も前向きな意味も含む。しかし私の”貴子”への感情はひたすらに後ろ向きだった。誰が何と言おうと、私に愛情は伝わっていない。私が現状このようになってしまったのは、えげつないまでに自分勝手で碌に省みることもなく奔放に振舞った”貴子”の所為だ。髄から信じ込んでいた。それは真実ではあった。

しかし世界をそのように捉えることは幹を持たないことの証左だ。他人に己が人生の舵取りを任せている状況ではないか。奴がいたから自分はこんな人生に立っている。

それは肯定的な意味であっても否定的な意味であっても、幹を持たないことにほかならない。己が人生に自分以外の影響主体があってはならないのだ。

もちろん間接的な影響を受け変化をすることは重要だ。しかしその変化はあくまで自分が能動的に生むものだ。他者に依り強制的に行われる変化はもはや屍への一歩だ。生を放棄している。

”貴子”を赦さなければならない。それはただ自分が何も変わらずに”貴子”の改心を待っても仕方ない。いや、作中にもあったが、改心したらそれはそれで赦せないこともあるものだ。

そうではない。”貴子”と自分を区別することだ。それこそ赦すことなのだ。

自分の人生を自分で責任をもって舵を取りながら乗り越えていく。それは”貴子”がいたことを肯定しながら、”貴子”には自分の人生を乗っ取らせないようにしながら生きていくこと。そんな気概がなけりゃ生きていくことはできない。そんな人間はただ屍としてこの世にあるだけだ。

みたいなことをげつんげつん感じさせられて超疲れた。辟易。しかし物語を最後まで読んだとき、別に感動という大仰なものではなく、ほんの少し瞳が潤むのを感じた。傑作。