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文学者になりきれず周縁部でおまつりさわぎをするの巻

ふだんの努力の方向性

私は疑問だ。

息をすることさえ忘れるほど追いつめられている状況は自分にとって必要なのか。

時として、必要。しかし、現状抱えているタスクというのは、呼吸困難に陥るほどのものではないという確信がある。

つまり、不必要に忙しくなってしまっているという危惧。

 

人は追いつめられるとおかしなことを考える。

私が先日、電車の中で書いたメモの内容を記す。

大概、爺はファッションセンスにおいては沢庵と同等かそれ以下であるというのが相場だが、異に殊に今、我が眼前に立つ爺は洒落乙である。革靴が黄色いのだ。黄色い革靴をお召の爺だ。帽子からトラウザーまで一点の曇りなきくぐもったベージュという、誠、爺の体現者ともいうべき出で立ちである。その御御足を彩るのは沢庵と同じ黄色の革靴である。

 

 

もう一つ記す。

「豊高ヨガ部」と書いたジャージを着ているが、どう見てもヨガなんてできそうにない、40がらみの巨躯

 

要するに、つまり、すなわち、

∴キャパシティの崩壊の憂き目は避けなければならない

如何様にして避けるのか。

凡愚は 、天才は、「他人を頼る」のであろう。

しかし頼るには信頼関係が必要であるのは神が天地を創り給うたころより自明の理であり今更殊に取り上げるまでもない。

凡愚は信頼関係などなくても無責任かつ無鉄砲、無計画で無慈悲、そんな自分に無自覚なまま他人に己が職務を責務を押し付けるなすりつける。段取りも伝えず任せた気になり自分は責任から解放されたというつかの間の安寧。しかしこのような荒行を天が赦すはずもなく、今世においても近いうちに地獄を味わい、死してなお地獄を彷徨い続けることになろう。誠、凡愚は罪である。

天才はそのあたり器量も良く、すべからく信頼関係などもちょちょっと築いており、突貫工事のような気軽さで摩天楼のごとき複雑怪奇かつ強固な(そしてときにはかない)関係性を築いているのである。だから人を頼っても今世でもボランティア活動などで着々と徳を積み、天国への安牌チケットをゲッチュする。

私の周りの人間の多くはその間で迷える子羊状態にある。あわよくば安牌チケットをゲッチュしたいところであるが、ひとつ間違えば未来永劫地獄を彷徨うことにもなりかねない。

これを解消するにはどうやら今のところ天才と同じ方法を取ることが確実であろう。いざというとき頼れる人間関係を普段から不断の努力によって築いておくこと。天才はそつなくこなすが、我々は血を吐く努力をしながら築いていくのだ。

いかにして。

愛?

愛。

呼び方は人ぞれぞれであろうが、要は愛情を持って接することである。

まず自分を愛すること。存在している自分を受け容れる認める。愛する。それが自立であり、自愛。

自愛の上に他愛が成り立つ。存在している他者を受け容れる認める。愛する。何にも依らず絹子さんは絹子さんとして認める。それが他愛。

愛をかけてかけられる存在が信頼関係ではないだろうか。

では、どうやって愛をかけてかけられるのか。

私にはまだ足りないものが多すぎて決着がつかない。誠、凡愚は罪である。