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文学者になりきれず周縁部でおまつりさわぎをするの巻

善悪を一度脇へ置く

「自己嫌悪」

自分が嫌いになってしまうこと。しかもただ”嫌”なのではなく、”悪”だとも言ってしまう。

これは大問題だ。

詭弁ではあるが、善悪の評価なんて人間世界が作り出したものに過ぎない。それは決して絶対的なものではない。

人を傷つけたり殺したりすることだって、それを容認すれば安心して生活できなくなるから、社会の大多数の人間の合意の下、法律に則り”悪”だとされているだけである。誰かを殺した瞬間にあなたという存在の意義が180度転換するわけではない。私やあなたからすれば死んでこの世からいなくなった方が都合のいい人だって何人かは挙げることができるだろう。

それでも人を殺してはいけない。そう言う人はいる。

それはその人の心に「人を殺すことは倫理に悖る」という固定観念が強力に張り付いているからだ。

一度その観念を取り払うと、人を殺すことは大した問題にはならないことが想像できないだろうか。

ある人が死んだ場合、その人と関りを持っていた人はそれから、その人がいない新たな生活を送っていくことになる。このときその人は、喪失感という情緒の問題だけでなく物理的な仕事量が欠けるという問題も抱えるだろう。この意味で、殺人は迷惑行為である。

しかし人間が一人この世からいなくなったとして、それで社会が滅ぶのだろうか。いなくなった人のことを悲しむ人はいたとしても、それで社会が滅びることはない。3億円事件のかい人21面相の方がよっぽど悪だと私は思う。

倫理観、価値観、観念的なものに縛られて、その枠だけで世界を捉えているうちは、善や悪というものは厳然と存在し続ける。

しかし観念はあくまで観念でしかない。意識すればそれはあなたの人生から取り除くことも可能だ。

これを取り去ると、人は自由になる。

何か目的がある人は、それを達成するために存分に自由を活かせばよい。

しかし無目的な自由は苦痛である。

 

 

観念に縛られていたころの私は、対人関係でうまくいかないことがあると必ず自分が”悪”いと極めつけて落ち込んでいた。何か問題が起こった時に、誰かが100%悪いと言うことはあり得ない。完全に自分一人に責任が降りかかる事象などこの世には存在しえない。地球135億年の歴史の結果として、あなたの人生にそのような失敗は発生したのだ。

その責任を一人で背負おうとするのは傲慢である。全人類、全世界、全宇宙が等しく責任を負うべきである。

等しく責任を負うなら全員が当事者である。ならば対応策は全員で考えるべきである。あなた一人があくせくして右往左往しても仕方がないしこれまた傲慢だ。一人で苦しむことさえも傲慢だ。

 

 

悪も善も存在しない。存在するのは、”合う”か”合わない”かである。”合え”ば幸せだし”合わない”と不幸である。双方がかみ合わないことが問題なのであって、決してどちらか一方だけが責められる謂れはない。あなたの話し方や仕草を肯定的に受け止める人は必ずいる。あなたの見た目に好感を抱く人だって必ずいる。

例えばファッション雑誌に載っている人のような見た目になることを”善い”とする人(A君)は、服装には興味がないので安い服ばかり着ている人(B君)とは”合わない”。しかしB君は服にはお金を使わなくても、その人は絵を描くために一生懸命道具を買ったり学校に通うお金をためているのかもしれないし、文学や音楽にお金をより費やそうと考えているのかもしれない。

そこまで想像できずA君が、お前の服装は貧乏くさくてとてもじゃないが一緒に歩きたくはない、とB君に言ってしまった場合。自分のお金をどう使おうが勝手なのにA君は「見た目がよいことが正義だ」というイデオロギーに取り憑かれて、どちらかというと外面よりも人間性や教養を磨こうと思っているB君を傷つけている。B君は腹を立てるかもしれない。哀しくなるかもしれない。恥ずかしくなるかもしれない。そこでA君の言うように服装にも気を付けてみようと思えばB君の人生はその後A君に接近するだろう。うるさい私は服なんてどうでもいいんだ!と思えばどんどん離れていくだろう。それだけだ。

どちらが善い悪いではない。合う合わないだけである。合わない場合も合わせたいなと思う人とは自然と合わせるようになるだろうし、合わせたくない人とは距離を置くようになるだけである。努力をして合わせた方がうまくいくこともあるが、それは人生戦略的なものであり、うまく生きるテクニックに過ぎない。それを本質的な善悪にまで引き寄せて、うまく付き合っていけない人がいることを落ち込んでしまうと、生きることはかなりつらくなるだろう。