頑張れた方がいいに決まってるじゃないか ~ふたご 藤崎彩織~
ふだんの努力の方向性
私は疑問だ。
息をすることさえ忘れるほど追いつめられている状況は自分にとって必要なのか。
時として、必要。しかし、現状抱えているタスクというのは、呼吸困難に陥るほどのものではないという確信がある。
つまり、不必要に忙しくなってしまっているという危惧。
人は追いつめられるとおかしなことを考える。
私が先日、電車の中で書いたメモの内容を記す。
大概、爺はファッションセンスにおいては沢庵と同等かそれ以下であるというのが相場だが、異に殊に今、我が眼前に立つ爺は洒落乙である。革靴が黄色いのだ。黄色い革靴をお召の爺だ。帽子からトラウザーまで一点の曇りなきくぐもったベージュという、誠、爺の体現者ともいうべき出で立ちである。その御御足を彩るのは沢庵と同じ黄色の革靴である。
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少女マンガの文学性 ~坂道のアポロン 小玉ユキ~
昨晩「坂道のアポロン」を一気読みした。ジャズを題材とした高校生たちの青春群像劇だ。舞台は1960年代。現代の高校生を語る上で欠かせないSNSは、もちろん存在しない。コミュニケーションツールが限られていることは、この作品の根幹に関わる部分である。もし現代ならこの物語はどうなるだろう、と想像するのも愉しい。家庭内での孤立、人種的マイノリティなどのテーマが散りばめられており、少し陳腐だなあと思ってしまう部分がないわけではなかったが、王道中の王道として誰もが安心して楽しめる作品になっている。
特に主要キャラのすれ違う恋愛模様など、ふとんをかみちぎるほどエキサイトさせてもらった。振り向いて欲しいときにあの人はもう違う方向を向いている。友情も恋愛も家族も、人間関係で「タイミング」はすごくだいじだ。しかし「タイミング」がぴったりと合うことは非常に少ない。すれ違いが生じたとたん、その人との関係が途絶えてしまうことも多いだろう。
私が好きなあの人は私を見ていない、そんなとき。
私は思う。縁がなかった、これが運命だ、と。諦めてしまうことは、実は簡単なのだ。
葛藤の末に「諦める」という選択にたどり着いたとしても、それは「逃げ」だ。
もちろん逃げることを否定する気はまったくない。人生は、あなたの時間は有限なのだ。つまらないことに拘っている場合ではない。
しかしなにもかも諦め、全てから逃げた人には何が残るのだろう。考えてみて欲しい。
家族とのすれ違いが重なり口もきかなくなってしまった。恋人や友達と話が合わないので疎遠になる。
全てから逃げたそのとき、あなたは純粋に孤独だ。
孤独な存在は極めて弱い。逃げるという選択に抵抗がなくなるからだ。
何かを諦め何かから逃げるのは、別のどこかで確実に勝つためだ。
私は闘うフィールドを決めた。そこに時間もエネルギーも金銭もすべて投入する覚悟を決めた。
負けられない闘いなのだ。ふわふわ独りでやってる奴には負けるわけがないのだ。捧げた時間、エネルギー、それらの重みが成果に反映される。
私は「家族」と「親友」だけは決して諦めない。すれ違いが重なり顔を見ることさえ嫌になったとしても、絶対に逃げない。嫌がられても話しかけるし、避けられても近くに寄る。必要だと思えばそっと見守り、心が折れているときには全力で支える。今相手との関係で何が必要か、それを間違えてはいけない存在が、私にとっては「家族」と「親友」だ。薫も千太郎もリツ子も、苦しんで葛藤して、どうにかして諦められない人を見つけてゆくのだ。その姿に人は胸を打たれる。人生のどこかにこの感懐を置き去りにしてきた人は、この作品を通じて取り戻してみてはいかがだろうか。
思い悩む人へ リゼロのスバルから学ぶ
最近、社会で生きることの難しさ、を強く感じる。
誰も責任感を持っていない。他人に責任を押し付けて平然としている。
私は誰かが悪いとはっきりさせることがニガテであり、その所為でずいぶん割を食ってきた。
一つの失敗に関して100%誰かの責任である、という事態は稀である。特に社会では人と人との関わりあいにより物事が進展してゆくので複雑だ。
何でもかんでも自分の責任として引き受けていたところ、かなり疲れてしまった。
疲れ切った人の心をうまく表現した作品がある。
「Re:ゼロから始める異世界生活」である。
私はこの作品をAmazonプライムで視聴した。
(2020.2.25追記:現在はシーズン1に新カットを加えた新編集版と、劇場版第1作が視聴可能である)
この作品は題名が示す通り突如異世界に送られてしまった少年スバルが、「魔女教」なる脅威がはびこる世界で出会った人々を救うために奔走する話だ(アニメ第一シーズン)。
一度目に見たとき、私は呑気な学生生活の真っ只中で、純粋に冒険活劇として楽しんだ。
エミリアよりもレムの方がヒロインじゃないか!などとぼやきながら非常に楽しんで視聴した。
2クール25話構成だが、18話までの数話は主人公スバルが思い悩み苦しむ様子が描かれている。
魔女教が繰り出す悪鬼羅刹さえも手を叩く執拗な攻撃の数々。スバルは何度も立ち向かい何度も死に、何度も大切な人を喪った。スバルはすべて己の怠惰のせいだと思い込んだ。そして壮絶な自己嫌悪に陥る。
初見時、このパートは視聴を続けるのが苦しかった。観終わってもあのパートは2度と見返すものかと思っていた。
しかし、このパートがあるからこそ、この作品は名作なのだ。今はそう思う。
初見時は本当にのどかな生活を送っており、苦しみを知らない嬰児のような私だった。
のどかな私は、凄惨なスバルの心がダイレクトに迫ってくる本作に恐怖したのだ。
怖いから逃げたくなったのだ。
しかし現実世界の方がよっぽど怖い。理不尽で無責任な他者がリアルタイムで自分と関わりを持っているのだ。次に相手がどう出るかわからない。よかれと思ってやったことがやぶへびの結果を生むなど日常茶飯事だ。理不尽に責められどんどん自分が悪いと洗脳される。自己嫌悪のどつぼにはまり自分の中に答えを探す日々。
そうして現実の苦さを知った私は、スバルの状況を痛いほど理解できた。もはや怯えることはない。今となっては私がスバルなのだ。
以下に私が最も感情を動かされたスバルの叫びを引用する。
力なんてないのに望みは高くて、知恵もないくせに夢ばかり見てて
できることなんてないのに無駄に足掻いて
俺は、、俺は俺が大っ嫌いだよ
いつだって口先ばっかりで
何ができるわけでもねえのにえらそうで
自分じゃ何にもしねえくせに、文句つけるときだけは一人前だ
何様のつもりだ
よくもまあ、恥ずかしげもなく生きてられるもんだよなあ、なあ
空っぽだ、俺の中身はすかすかだ
決まってるさ、ああ当たり前だ
当たり前に決まってる
俺がここに来るまで、こうしてお前たちに会うような事態になるまで
何をしてきたかわかるか
何もしてこなかった
何一つ俺はやってこなかった
あれだけ時間があって
あれだけ自由があって
なんだってできたはずなのに
なんにもやってこなかった
その結果がこれだ
その結果が今の俺だ
俺の無力も無能も全部が全部
俺の腐りきった性根が理由だ
何もしてこなかったくせに
何かを成し遂げたいだなんて
思いあがるにも限度があるだろうよ
怠けてきたつけが、俺の盛大な人生の浪費癖が、俺やお前を殺すんだ
そうさ性根は何も、この場所で生きてくんだってそう思ったって何も変わっちゃいなかった
あのじいさんはおれのそこんところもきっちり見抜いていやがった
そうだろ
強くなろうとしてたわけでも、どうにかなろうと思ってたわけでもねえ
俺はただ、何もやってないわけじゃないんだって、努力してるんだって、そうやってわかりやすいポーズをとって自分を正当化してただけだ
しょうがないって言いたい仕方がないって言われたい
ただそれだけのために俺はああやって体を張ってるようなふりをしてたんだ
お前を付き合わせて勉強してたのだって、そのバツの悪さをごまかすためのポーズだったんだよ
俺の根っこは、自分可愛さで人の目ばかり気にしてるような小さくて卑怯で薄汚い俺の根っこは、何も、何も変わらねえ
本当はわかってたさ
全部俺が悪いんだってことくらい
俺は最低だ
俺は俺が大嫌いだよ【18話より】
もともとスバルは責任感が強いのだ。自分で何とかしようとして精一杯、本当に死力を尽くして頑張った。そして何一つ結果はついてこない。現実世界でもあることだ。私の場合は最終的に一人で何もかも収拾をつけようとしてうまくできなかったとき、上司の管理不足の責任まで押し付けられた。
最初は私もスバルと同じように自己嫌悪の極致に陥った。周りの人に相談することはなかった。いよいよ悲しみ以外の感情が死んでしまったとき、心療内科にかかった。そこでようやく、なぜ身の回りの人に相談しないのか、と問われた。私は答えられなかった。こういう問題は身近な人には言いにくいという心情がどこかにはあったのだろう。私は誰かに打ち明ける、誰かを頼るという選択肢を完全に失っていたのだ。だから専門家である心療内科を訪れた。そしてとても素朴な第一歩を示してもらった。
それからは親、友人など仕事に関係のない人に相談をしまくった。愚痴を言いまくった。自分では自分のことを正当化することができなかったが、私の周りには私の事を受け入れてくれる人が、思っていたよりもたくさんいた。
スバルの場合はレムがいた。かつてスバルを襲いかつてスバルに救われた鬼族の少女だ。
スバル君がいいんです、スバル君じゃなきゃいやなんです
空っぽで何もなくて、そんな自分が許せないならいまここから始めましょう
レムの止まっていた時間をスバル君が動かしてくれたみたいに
スバル君が止まっていると思っていた時間を、今動かすんです
ここから始めましょう
イチから
いいえ
ゼロから
一人で歩くのが大変ならレムが支えます
荷物を分け合ってお互いに支え合いながら歩こう
あの朝にそう言ってくれましたよね
カッコいいところ見せてください【18話より】
スバルは誰も救えなかったと思い込んでいた。しかしレムはスバルに救われていた。
もし今、自分がダメな人間だと思っていて、自分なんてこの世界にいないほうがいいと思っている人はよく考えてみてほしい。
あなたがいたことで幸せを感じた人はこの世にいないのだろうか。
もしあなたの存在によって幸せを感じた人が一人でもいるなら、あなたの存在はこの世にとって必要なのだ。
得意なこと、苦手なこと、誰にだってある。
出来ること、出来ないこと、誰にだってある。
出来るようになれれば素晴らしいけど出来なくたって誰かを頼ればいい。そのためには普段からいざというときに助けてもらえるようにしないといけない。そのためにあなたは普段から周りの人を助けられる人でなければならない。助けられてばかりもカッコ悪い。
完璧超人じゃなくていいから、あなたのたいせつなひとのことを、本当に想って生きておいた方がいい。想いが届かなくて後悔することは、辛い。助けられたはずの人を助けられないことは、辛い。私には耐えられない。
私はあなたがこの世界を去るなら寂しいと思う。
私はあなたにこの世界にいてほしい。
同じ苦しみを味わった同士として、あなたの味方として。
最後にリゼロは関係ないけど好きな言葉。
「地球はみんなのものだから
どこにいたっていいんだよ」
月光浴
風の匂いが変わった。春がやってきた。
散歩をしているといろいろなことに気付く。踏みしめる草も先週よりずいぶんみずみずしくなった。
春の夜は一人で過ごすに限る。この時期だけは人恋しくならない。世界中が母親の胎内のように、なまあたたかく、やさしいから。
池のぐるりを歩く。池の中へと少し飛び出すかたちで休憩所が設えてある。ベンチに腰掛け月明かりを浴びる。手相くらいは見える明るさ。
旅に出るか否か。考えても答えは出ない。この世界に長くいすぎた。あんまり居心地がよくて。本当はもっと早く旅立つはずだったのに、いつの間にか季節が過ぎて。
まだ物足りない。今日は近くの大学の構内まで足を伸ばしてみよう。馬術部の厩舎の匂い。湿った土の匂い。月影から立ち上る匂い。この世界が好きだ。
ここに散歩に来たのはずいぶん久しぶりだ。前に来たときは母に手を引かれていた。日差しがまぶしくて目を開けているのが辛くて。だから景色よりも匂いの方が強く記憶に残っている。草が日差しを反射する匂い。
あの日から何度絶望しただろう。望みが絶えた先に生きる目的なんてあるはずもなくて。それでも生きねば。生まれて来た意味を見つけるまでは。
母に、生まれて来た意味を伝えるまでは。
母にはいつも不安、心配をかけてきた。安心してもらいたい。あなたの子はこのために生まれてきたんだよって。この世界で生きていけるんだよって。
生まれて来た意味を探してもがいた。自分がこの世界にできること、遺せるもの。何から何まで手をつけて、何から何まで失敗した。何もできることなんてないのかもしれない。何も遺せるものなんてないのかもしれない。
本当は生まれて来た意味なんてないのかもしれない。
やがて疑惑は確信に変わる。できることはない。遺せるものもない。生まれて来た意味はなかった。
母は死ぬまで心配をし続けるのか。そのことを考えると悲しくて胸が苦しい。
私はまだ考えている。しかし世界に怯える私は、まだ答えには程遠い。
善悪を一度脇へ置く
「自己嫌悪」
自分が嫌いになってしまうこと。しかもただ”嫌”なのではなく、”悪”だとも言ってしまう。
これは大問題だ。
詭弁ではあるが、善悪の評価なんて人間世界が作り出したものに過ぎない。それは決して絶対的なものではない。
人を傷つけたり殺したりすることだって、それを容認すれば安心して生活できなくなるから、社会の大多数の人間の合意の下、法律に則り”悪”だとされているだけである。誰かを殺した瞬間にあなたという存在の意義が180度転換するわけではない。私やあなたからすれば死んでこの世からいなくなった方が都合のいい人だって何人かは挙げることができるだろう。
それでも人を殺してはいけない。そう言う人はいる。
それはその人の心に「人を殺すことは倫理に悖る」という固定観念が強力に張り付いているからだ。
一度その観念を取り払うと、人を殺すことは大した問題にはならないことが想像できないだろうか。
ある人が死んだ場合、その人と関りを持っていた人はそれから、その人がいない新たな生活を送っていくことになる。このときその人は、喪失感という情緒の問題だけでなく物理的な仕事量が欠けるという問題も抱えるだろう。この意味で、殺人は迷惑行為である。
しかし人間が一人この世からいなくなったとして、それで社会が滅ぶのだろうか。いなくなった人のことを悲しむ人はいたとしても、それで社会が滅びることはない。3億円事件のかい人21面相の方がよっぽど悪だと私は思う。
倫理観、価値観、観念的なものに縛られて、その枠だけで世界を捉えているうちは、善や悪というものは厳然と存在し続ける。
しかし観念はあくまで観念でしかない。意識すればそれはあなたの人生から取り除くことも可能だ。
これを取り去ると、人は自由になる。
何か目的がある人は、それを達成するために存分に自由を活かせばよい。
しかし無目的な自由は苦痛である。
観念に縛られていたころの私は、対人関係でうまくいかないことがあると必ず自分が”悪”いと極めつけて落ち込んでいた。何か問題が起こった時に、誰かが100%悪いと言うことはあり得ない。完全に自分一人に責任が降りかかる事象などこの世には存在しえない。宇宙135億年の歴史の結果として、あなたの人生にそのような失敗は発生したのだ。
その責任を一人で背負おうとするのは傲慢である。全人類、全世界、全宇宙が等しく責任を負うべきである。
等しく責任を負うなら全員が当事者である。ならば対応策は全員で考えるべきである。あなた一人があくせくして右往左往しても仕方がないしこれまた傲慢だ。一人で苦しむことさえも傲慢だ。
悪も善も存在しない。存在するのは、”合う”か”合わない”かである。”合え”ば幸せだし”合わない”と不幸である。双方がかみ合わないことが問題なのであって、決してどちらか一方だけが責められる謂れはない。あなたの話し方や仕草を肯定的に受け止める人は必ずいる。あなたの見た目に好感を抱く人だって必ずいる。
例えばファッション雑誌に載っている人のような見た目になることを”善い”とする人(A君)は、服装には興味がないので安い服ばかり着ている人(B君)とは”合わない”。しかしB君は服にはお金を使わなくても、その人は絵を描くために一生懸命道具を買ったり学校に通うお金をためているのかもしれないし、文学や音楽にお金をより費やそうと考えているのかもしれない。
そこまで想像できずA君が、お前の服装は貧乏くさくてとてもじゃないが一緒に歩きたくはない、とB君に言ってしまった場合。自分のお金をどう使おうが勝手なのにA君は「見た目がよいことが正義だ」というイデオロギーに取り憑かれて、どちらかというと外面よりも人間性や教養を磨こうと思っているB君を傷つけている。B君は腹を立てるかもしれない。哀しくなるかもしれない。恥ずかしくなるかもしれない。そこでA君の言うように服装にも気を付けてみようと思えばB君の人生はその後A君に接近するだろう。うるさい私は服なんてどうでもいいんだ!と思えばどんどん離れていくだろう。それだけだ。
どちらが善い悪いではない。合う合わないだけである。合わない場合も合わせたいなと思う人とは自然と合わせるようになるだろうし、合わせたくない人とは距離を置くようになるだけである。努力をして合わせた方がうまくいくこともあるが、それは人生戦略的なものであり、うまく生きるテクニックに過ぎない。それを本質的な善悪にまで引き寄せて、うまく付き合っていけない人がいることを落ち込んでしまうと、生きることはかなりつらくなるだろう。
DVを我慢する思考回路
人生辛いことばかり。
先ほど4つ記事を一気に公開したが、すべて人生のどつぼのどつぼ、いちばん苦しい時期に書いたものだ。
私は哀しいことに、人生を楽しめない性分である。
基本的に何か辛いことが起きると自分を責め、落ち込んでいるときは拍車をかけて自分を落ち込ませる。
まだ自分の中で整理できていないので具体的なことは一切書かない。ぼやかして書くのでなんのことだかわからないだろう。それでも書く。
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